春雷 23

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 激しい雨が窓を叩く音を聞きながら、携帯の画像を順番に眺めていく。
 もう、次にどの画像が表示されるか分かる位に、何度も繰り返し眺めているけど、小さな画面の中で笑っている葵の姿は、どれだけの時間眺めてみても、全然見飽きる事なんてなかった。


 最初に言ってた通り、広石と桑原が葵に会う度に撮って送ってくる、新しい彼の写真は、直ぐに数え切れない程の量になった。
 もっとも、俺も同じ位はアイツ等に写真を撮られた記憶があるから、きっと葵の携帯だって、凄い分量の俺の写真で埋まっていると思う。
 彼の写真保存専用のメモリーカードを買って、月毎のフォルダに別けて保存していた葵の写真達は、今日でちょうど丸四年分になった。


 こうして順番に眺めてみると、俺達が離れた直後の、見慣れていた幼さの残る表情から、少しずつ大人の顔つきに変わっているのがよく分かる。
 広石や桑原と一緒に画面に収まっている、屈託のない無邪気な笑顔の葵から、少しずつ目元が大人っぽくなってきて、最近では、一人で静かに微笑んでいる写真が増えてきている。
 背丈や体格はほとんど変わってないらしいけど、「話す内容と雰囲気が、ちょっと大人っぽくなってきたな」と、こちらも随分と大人っぽくなった広石が、楽しそうに教えてくれた。
 広石と桑原は、意外とこの役目を楽しんでいたそうで、「もう、葵の写真を撮る必要もなくなるんだなぁ」と、ほんの少し寂しそうにしている。
 だから、俺が葵を迎えに行って、彼を連れて戻ってきた後は、今度は「俺と葵」の写真を撮って欲しいと、改めてそんな事を頼んでやった。


 昨日まで頻繁に送られてきていた葵の写真も、今日はまだ一枚も送られてきていない。
 あと数時間後には、今までとは違う意味を持つ事になる葵専用のカードを携帯から取り出し、買ってきていた新しいカードを、その代わりに差し込んだ。
 自分以外の誰かに撮って貰った葵じゃなく、今日からは俺が自分の手で、大好きな姿を携帯に納める事が出来る。
 豪雨を通り越して、ほとんど嵐に近くなっている窓の外を窺いながら、携帯を机に戻して、壁にかかっている絵を見詰めた。




 テレビを置いている壁の少し上の方になる、一番目に留まりやすい所に、あの絵を飾った。
 父が描いてくれた「俺達の絵」が此処に飾られているのを見て、部屋に戻ってきた葵は少々照れていたらしい。
 でも、葵の方だって同じ絵を、喫茶店のインテリアとしてさり気なく飾っている事に、葵が此方に来ている時に、入れ違いで兄の所へ遊びに行った時に気付いた。


 広石達が送ってくれた写真は、葵一人だったり、周りの誰かと一緒だったりするけど、その中に俺が入っている事は絶対に無い。
 だから、俺と葵だけが描かれている、父が俺達其々に手渡してくれた絵は、四年間という、短い様でやっぱり長くて待ち遠しかった日々を、絵の持つ雰囲気そのままに、穏やかに癒してくれた。
 実物がありのままに写ってしまうデジタルな写真とは少し違って、手描きの絵というのは、見る者の気分次第で様々な表情を感じるものらしい。
 彼がいなくなった直後は、少し哀しげな表情を浮かべている様に見えていた『俺達の絵』も、最近は、随分と楽しそうに寄り添っている様に見えてきた。
 桑原が「好きな絵を眺めてるだけでも楽しい」と言ってた気持ちが、ちょっと分かる様な気もするな……と、今頃になって理解しつつ、自然と頬が緩むのを感じていた。




 葵を好きになった頃……そして、俺の隣を離れていく彼を引き止める事が出来なかったあの頃。切に願い続けていた様に、もう自分一人でも生きていける大人になった。
 あの時は、どうして葵が俺を置いて出て行くのか――――それが本当の意味で理解出来ず、葵の気持ちを少しだけ疑っていた。
 今にして思えば、スーパーで缶チューハイを買っただけで胸を高鳴らせ、家族皆で過ごすクリスマスを心待ちにしている様な、まだ精神的に幼かった葵が、周囲に隠れてひっそりと育むこんな恋愛に、澄ました顔で耐え切れる筈がない。
 でも、それにまったく気付かず、出て行こうとする葵を暗に責めてしまった俺自身も、彼と同じ位、まだ本当に子供だった。


 真剣に悩み続けて辛かった時間を乗り越え、俺も葵も、少しだけ大人になれたと思う。
 互いに言葉を交わす事も無い、本当に別れてしまってもおかしくない時を越えて、それでも、葵と一緒に生きていく事を、俺は何の躊躇いもなく、自分の意思で選んだ。


 さり気なく、其々の立場で励まし続けてくれた周囲の皆にも、本当に感謝している。
 きっと周囲の皆から見れば、随分と無駄な事をしている様に感じたと思う。
 それでも皆、何も言わずに俺達の決断を認めてくれて、陰になり日向になり見守って応援してくれた。
 約束していた通り、本当に四年間、一度も葵と直接会う事は無かったけど、彼が元気に日々を過ごしている事だけは、皆がいつも教えてくれていた。
 だから俺達は安心して、自分自身が少しずつ育っていくのを、静かに待ち続ける事が出来た。




 座っている隣にあるクッションの位置を、葵が座りやすい様に整える。
 俺が大学に行っている間に葵が買ってきてくれた、色違いのお揃いのクッションは、ココに置いて随分経つけど、まだ同時に使った事はない。
 部屋に遊びに来る広石や桑原は、葵がいつもいる定位置には決して座ろうとしない。多分、俺がいない時に葵とこの部屋で遊んでいた時にも、聞いた事は無いけど、俺が今、座っている場所は空いている。
 どれだけの時間を空けてみても、やっぱり俺の隣には、葵の姿しか置きたくないと、それだけを実感していた。


 肌に馴染んでいた葵の抱き心地が、この四年間でどう変わっているのか――――ほんの少し、楽しみに思う。
 華奢なのに柔らかくて暖かな葵の姿を、ずっと四年もの間、ひたすらに恋焦がれていた。





 少しは落ち着くかと思って待ってみたけど、窓の外で吹き荒れている嵐が治まる気配は、まったく無い。
 だからといって日を改める気なんて更々ないから、随分と軽い気持ちで勢い良く立ち上がると、静かに部屋を後にした。






*****






「あれ? 佑輔、出かけるんだ。珍しいな、雨に濡れるの大嫌いなのにさ」
 この激しい風雨じゃ靴も役に立たないだろうから、久しぶりに高校時代の使い古したバスケシューズを取り出し、玄関でゴソゴソと準備をしていると、背後から桑原の声が聞こえてきた。


「あぁ、四年前からの約束だからな。これ位の雨なんか、別にどうって事ねぇよ」
 シューズを履きつつ、後ろを振り返って答えると、桑原は思い出した様に嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「あー! そっか、今日が四年目か。そりゃあ雨が大嫌いな佑輔でも、今日は絶対に出かけなきゃだよな」
「まぁな。お前、ココに住んでるって事を、葵に教えているのか?」
「いや、まだ何も教えてないぜ。驚かせようと思ってさ。先生も『葵が戻ってくるまで内緒にしとこう』とか言ってたし。これでアッチに出かけなくても、葵と会える様になるのか……何かちょっと俺まで嬉しいかも」
 背中越しに弾んだ声色で呟く桑原の言葉を聞きながら、シューズの紐を丁寧に結び直していく。




 高校卒業後の進路について散々迷っていた桑原は、四年前、やっぱり正式に美術学校に進んで、きちんとセオリーを勉強する事を決めた。
 もっとも、美術学校で勉強すると言っても、彼自身は相変わらず『絵を描くこと』を本職にするつもりはなく、将来的には「画商とか買付とか、そういう仕事が良いなぁ」と、ぼんやりと考えているらしい。
 その為には、ちょっと位は描く方のあれこれも知っておいた方が良いよなって気がして、親父にも相談したら、その考えを薦められて、美術学校に通う様になった。
 もっとも、いざ描いてみればやっぱり好きな事だから楽しいらしく、高校の勉強とは随分と違う真面目さで、熱心に勉強に励んでいた。


 親父の仕事を助手として手伝いながら、そういう所でもバイトをしつつ、葵の所にも遊びに行って、学校にも通っている忙しい彼は、親父の仕事を手伝って帰りが遅くなった時に、この家に度々泊まって帰るようになった。
 手伝いが無い時でも、親父のアドバイスを貰いながら、気の済むまでアトリエの片隅で好きな様に絵が描ける、この家の環境は、桑原にとって本当に心地良い場所になったらしい。
 最初の二、三回は俺の部屋に泊まって、葵の物を借りて使っていたものの、徐々に自分の荷物を運んできては、それを使う様になってきた。
 そうしている間に、親父が描きかけの絵をストックしていた部屋を片付け、片隅をパーテンションで仕切って私物を置き始めた桑原は、いつの間にか着替えの服や自分の茶碗なども持ち込み、頻繁に泊まっていく様になってきた。
 親父や母さんも桑原の事を気に入っているし、葵がいなくなって静かな夜が増えてきていたから、無下に拒絶する訳もなく、何故だか、ごく自然に彼の存在を受け入れている。
 そして一年程が過ぎた頃、最後に自分のベッドと、菓子折りを持った両親を連れてきた彼は、正式にこの家の家族になって、住み込みで親父の手伝いをする事が決まった。


 息子が絵画に興味を持っている事は知っていたし、学校で仲良くなった友達の父が画家で、将来の仕事について相談に乗って貰ったり、時々遊びに行っている事も聞いていたけど、まさか「住み込みでお世話になりたい」とか言い出す位に仲良くなっているとは、考えてもいなかったらしい。
 挨拶し合う両親の姿が、傍で見ている俺と桑原には結構面白くて「笑い上戸の葵がいたら、きっと必死になって笑いを堪えてただろうな」と、そんな事を話し合いながら、葵の親友でもある桑原が、家族の一員に加わった。


 親父の事を「佑輔んちのおじさん」から「浜砂先生」と、一応、そう呼ぶ様になっただけで、基本的に今までと変わった所は無いと思う。
 「俺は『先生』とか呼ばれる柄じゃないからなぁ」と照れる親父に向かって、「普段から慣れとかないと、外でも『おじさん』って呼んでしまうからダメ」と主張する桑原は、とても仲の良い師弟関係をしっかりと築いているらしい。
 葵がいない間に一人増えてしまった家族は、大きな部屋の片隅を占領して、大好きな絵に囲まれた日々を、本当に上機嫌で快適に暮らしている。




「葵が知ったら喜ぶだろうな。アイツも賑やかなのが好きだし、桑原とも仲が良いからな」
「そうだと良いな。でも、最初はちょっと半分怒るかも。『なんで黙ってたんだよ!』みたいなさ」
「あぁ、確かに……じゃあ、俺も黙っておこう。夕食の時になって、桑原が普通に食卓にいたら驚くだろうな」
「それ良いかも! 久しぶりの一家団欒だもんな。ちょっと先生やおばさんとも相談して、葵が戻ってくる準備しとくぜ」
 満面の笑みを浮かべて、そう話した桑原は、もうすっかり慣れた様子でリビングへと引き返していく。
 これを知った時の驚いた葵の姿を、何となく思い浮かべながら、頬を緩めて立ち上がって、玄関ドアの方にへと向かった。




 四年前の約束通りに、今日、葵を迎えに行く。
 俺はこんな事しか葵にしてやれないと情けなく思っていたけど、今では、唯一『俺が葵にしてやれること』だと重ね続けた遠い日々を、心の底から誇りだと考えている。
 だからもう、葵に逢いに行くことに、俺は何の不安も持っていなかった。


 こうして葵を迎えに行く事が、本当に正しい事なのかどうか、それは今でも判らずにいる。
 でも、俺の隣は葵じゃなきゃダメだから、彼を迎えに行こうと決めた。


 役に立ちそうにないけど傘だけは一応手にして、叩き付ける春の嵐の中、最愛なる葵を迎えにいく為に、ドアの外にへと踏み出した。






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2009/10/5  yuuki yasuhara  All rights reserved.