秋桜 01

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 普段は無い用事があると思うと、やっぱりそればかりが気になってしょうがない。
 見ても仕方ないのは分かってるけど、無意識に壁にかかっている時計に視線を向けた。




 夏が近付いてきて気温の変化が激しい日が続いたからか、義母に続いて嫁までもが、早々と夏風邪でダウンしてしまった。
 幸いにも男連中は頑丈で、俺に義父、息子は普通に元気だから日常生活は何とかなっているものの、息子の保育園へのお迎えだけは本当に困ってしまった。
 普段は義母が行ってくれていて、それが無理な時は、家の近所で働いている嫁がちょっとだけ仕事を抜け出して行ってるけど、今回はその二人がダウンしている。
 義父も普通に仕事を持っているし、忙しい時期な上に勤務先がかなり遠いから、保育園のお迎えに間にあう時間帯には帰宅出来ない。
 昨日は嫁が何とか起きてお迎えに行ってくれたけど、今朝は二人とも起き上がって食事を取るだけでも辛そうだから、外出は控えておいた方が良さそうな気がする。
 無理をして長引くよりかは……と、義父よりかは職場が近い俺が、何とか仕事を早めに切り上げてお迎えに行く事にした。
 朝一で職場の皆には事情説明の連絡メールを廻して、定時終了と同時に速攻で帰宅する許可は貰っているものの、自分の仕事的な配分もあるし、やっぱり気になってしょうがない。
 また無意識に顔を上げて時計に視線を向けようとした所で、真正面に座っている森崎部長と思いっきり目が合った。




「おい、宮下。ちょっといいか?」
 直ぐにさりげなく視線を逸らせたつもりだったのに、案の定、速攻で名前を呼ばれてしまった。
 遊んでた訳じゃないけど仕事が上の空になってたのは事実だから、あまり誉められた事ではない。
 何でよりによって、森崎部長の真上に時計があるのかなぁと恨めしく思いながら、とりあえず返事をして席を立ち、怒られるのを覚悟しつつ部長席にへと急いだ。






「失礼します……あの、すいません。仕事中にボーッとしまして……」
 立派な社会人の場合、こういう時はどうやって言い逃れるのが最適なのかと考えたものの、やっぱり咄嗟に上手い言い訳なんて出てこない。
 何だか学生時代に先生相手に謝る時みたいな、やたらと中途半端な謝罪の言葉を返すと、森崎部長が軽く頬を緩めた。
「分かっている。息子を保育園までお迎えに行くんだったな。時間が気になるのは当然だ。まだ急ぎの仕事は残っているのか?」
「いえ、今日中に必要だった分は終わってます。今は次に抱えてる分の準備などをやっています」
「やはり終わってたのか。それなら早く言ってくれば良かったのに。今日はこのまま帰るといい。宮下は俺の家と近所だったな。この時間なら延長保育を頼まなくても、まだ充分に間に合うだろう」
 自分の腕時計で時間を確認しつつ、そう問いかけてきた森崎部長の顔を、呆気にとられたままぼんやりと眺めた。


「――――……え、良いんですか? まだ、定時まで一時間以上ありますけど」
「自分の仕事は終わらせているし、立派な用事があるんだから構わない。それに今日は元々、皆も定時退社する日だ。少し早めに終わる程度だから気にするな」
「あ、もう金曜なのか。今週は家中がゴタゴタしてて大騒ぎだったんで、何曜日か気にしてませんでした……」
 明日のお迎えはどうしよう……とか、半ば仕事をそっちのけで色々と考えていたものの、明日は土曜日で保育園どころか、俺本人も休みだった。
 いくら滅多に無い事だとは言え、オロオロと慌て過ぎな自分自身に呆れつつも、本気で驚いてしまった。




 会社として定時退社日が決められている訳じゃないけど、この部署だけは金曜が定時退社の日で、皆も基本的に残業をせずに帰宅している。
 5年ほど前、森崎部長が結婚した頃に彼がそう決めて宣言したみたいで、彼が部長になった今では、受け持っている部署全体が定時退社するようになっていた。
 早く帰れるのは嬉しい事だし、規則ではないから忙しい人は残業しても大丈夫で、仕事的に問題もないから誰も文句を言う筈がない。
 もっとも、森崎部長が周囲に強制している暗黙の了解ではなく、部下達が「部長が帰るから……」と言い訳に使ってそそくさと一緒になって帰っているのが実情だけど、家庭持ちな個人的には、とても嬉しい習慣だと思っている。
「……そういえば、森崎部長のお宅はお子さんはいないと伺ってましたけど。保育園の延長保育とか、何で知ってるんですか?」
 ふと不思議に思って聞いてみると、森崎部長は首を傾げた。


「宮下はまだ聞いてなかったのか。義姉夫婦の子供が今年で3歳なんだが、夫婦で共働きだからウチのヤツが保育園に連れて行ったりと、日中の面倒を見ている。送り迎えをしている間に保育士さん達と仲良くなって、その保育園で手伝いを始めたんだ。毎日、色々と保育園の話を聞かされるから、俺の方まで詳しくなってきたな」
「え、そうなんですか。じゃあ、部長の奥さんは保育園の先生なんですか?」
「いや、保育士の資格などは持ってない。だから単なる雑用担当で、子供の遊び相手程度のアルバイトだ。それでも、保育園の先生は子供相手で重労働だから、手伝い程度でも大助かりで喜ばれている様だな。毎日、楽しそうに通っている」
「分かるかも。ウチは5歳の男の子なんですけど、一緒に遊ぶと僕でも本当に疲れますから。男の子ですか?」
「男の子だ。でも大人しくて甘えたがりな性格だから、そういう意味では楽な方だろう。そのうち生意気盛りになるんだろうけど、あの位の年頃は本当に可愛いもんだな。ウチの奴にそっくりだし、自分の子供同然だと思っている」
 可愛らしい二人の姿が頭に浮かんでいるのか、森崎部長が嬉しそうに頬を緩めた。


 数年前に結婚した森崎部長と奥さんは、今でもとても仲が良いらしくて、こんな感じで時々会話に登場してくる事が多く、新入社員の俺でも色々と話を聞いている。
 新婚当初は皆で遊びに行ってたそうだけど、彼が部長になってしまった今では、さすがに俺みたいな新入社員が気軽に遊びに行ける筈がなく、結構近くに住んでいるらしいものの、まだお宅に伺った事はないし奥さんを見た事はない。
 それでも、森崎部長と同期の三浦係長を筆頭に社内でも昔から仲の良い人達は、数ヶ月に一度程度の頻度で遊びに行っているらしくて、そういう話を小耳に挟んだりする場合も多い。
 森崎部長が奥さんの愚痴をこぼしている所は見た事がないし、奥さんとも面識のある人達は皆、お世辞じゃなく本気で誉めている上に「人生最大のカルチャーショックだった」とか「世界観が変わる」などの言葉が並んでいるから、よっぽど綺麗で素敵な奥さんなんだろうなぁと気になっている。
 詳細を知りたくて先輩達に聞いてみるけど「そのうち分かる」とか「説明されるより自分で目にした方が良い」などと、勿体ぶって誰一人として教えてくれない。
 ただ、配属になって直ぐの頃から「お子さんはまだですか?」とか「早く作られたら……」的な言葉だけは絶対に禁句だからと、それだけは部署内の人達全員から異口同音に幾度となく教えられていた。
 だから「森崎部長は子供嫌いな人なんだな」と勝手に解釈して納得していたのに、どうもそうではないらしい事に、最近になって気が付いた。
 森崎部長のお宅に「子供がいない事を聞くな」と言っていたのに、子持ちの皆は普通に子供の話を部長にしているし、森崎部長も楽しそうにその話を聞いている。
 俺にもこういう話題を振ってきて、奥さんも保育園のお手伝いを引き受ける位だから、子供嫌いな訳じゃなくて、ちょっとした『大人の事情』があるんだろうと、何となく理解してきた。




「それにしても、宮下の息子は5歳なのか。保育園に通う位だから、それなりの年齢だとは思っていたが……その歳で子育ては大変だな。俺が新卒の頃なんて、まだ学生気分で遊び歩いていた。頑張っているな」
 奥さん達の姿を思い浮かべているうちに、ふと、その事に思い当たったらしい。
 しみじみとした口調で話しかけてきた森崎部長に向かって、少々慌てて頭を振った。
「いや、僕は別に……子供は元々好きだし、息子が何かすごくしっかりしてるんですよ。親の方がまだ子供っぽくて頼りないから、逆に自立したのかなぁとか」
「そうなのか? 宮下が頼りないとは思ってないだろうが。子供なりに親が若いと、色々と考えるのかもしれないな」
「保育園で他所のお父さんやお母さんを見て、自分の親は若いんだなって気付いたみたいです。それに、義父母がすごく理解のある人達なんですよ。子供が出来た時も怒られるより喜んでくれたし、今でも進んで面倒を見てくれてるんで、僕は何かと楽してます。本当に僕達夫婦二人だけで子育てだったら、やっぱり少し無理だったかも」
「確かにお祖母ちゃんの協力が有る無しでは、子育ては随分と違うだろうな。そういえば、宮下はウチのヤツと同じ歳だったな。ウチのも『弟みたいですごく可愛い』と言っている。年齢が近いとそう感じるのかもな」
 唐突に呟いた森崎部長の言葉に、一瞬、真剣に考え込んだ。


「――――……そ、そうなんですか!? 部長の奥さんって、僕と同じ歳なんですか!?」
 慌てふためきつつ問いかけると、森崎部長は不思議そうな表情を浮かべた。
「あぁ、そうだ。お前、知らなかったのか?」
「はい、詳しい年齢までは……まだ若い人だってのは聞いてたんですけど、僕と同じ歳なのか……じゃあ、奥さんって学生結婚なんですか?」
「まぁ、そんな感じだ。ウチは結婚式などは挙げてないが、アイツが大学生になると同時に一緒に暮らし始めた。だから宮下が結婚したのとほとんど同時期だな。俺達には子供はいないが、姉夫婦の子供を預かっている時間が長いし、きっと宮下の家と似た様なライフスタイルだと思う」
 やたらと上機嫌で嬉しそうに説明してくれる森崎部長の顔を、思わず呆然と見詰めてしまった。
 新入りの俺を驚かせようとしているのか、職場の皆は色々な事を親切に教えてくれるものの、一番肝心な「何か」をあえて内緒にしている事が多々あって、いつも後から本人経由で聞かされ真剣にビックリしている。
 その度にちょっとだけ悔しい思いをして、もうその手には乗らないぞと警戒しているのに、また今回も引っかかっていたらしい。
 よく考えれば、誰も年齢を教えてくれない時点で何か怪しいと考えるべきだったなぁと反省しつつ、深々と溜息を吐いた。


「そうなんですか……でも、すごいな。僕達も学生結婚だったけど、嫁は料理とかの家事関係は、今でも苦手みたいですよ。両親と同居ってのもあるかもですけど、お互いに学生気分が抜けてないなぁって、時々二人で反省してるんです」
「ウチの奴は家事全般しっかりとやっているし、特に料理は本当に得意分野だ。一緒に暮らし始めた頃から、とても上手に作ってくれている。アイツが高校生だった頃から夏休みは母に教わって、俺のマンションで夕食を用意して帰宅を待ってくれていた」
「森崎部長は今でも毎日、愛妻弁当持参ですもんね。僕と同年代で結婚してて、料理を毎日作れるだけでも凄いですよ」
「俺も一人暮らしの頃は夕食なら時々作ったりしてだが、今はそれも無理だろうな。特に弁当なんか面倒だし、作ろうとすら思わなかった。早起きして用意するだけでも大変なのに、しかも美味しく出来ているからな。他の家事も完璧にこなしているし、ウチの奴は本当によくやっていると思う」
 もういい加減に慣れてきたけど、森崎部長は本当に奥さんの事が大好きでしょうがないらしい。
 結局、またいつもの奥さんの自慢話を繰り広げ始めた森崎部長の話に耳を傾けながら、今回は本当に感心してしまっていた。


 小さな個人経営の所ならともかく、会社の規模を考えると30代前半で部長なんて、かなり異例中の異例な人事だと思うし、実際に彼以外の部長達は皆、それなりの年配者ばかりだったりする。
 だからそれだけでも凄い事なのに、彼は周囲にもとても人気があって、この部署に入りたがっている人は社内にも数多く存在していた。
 新卒の俺が配属された時にも散々羨ましがられていたけど、その理由は実際に配属されて日々実感している。
 同期の人達をブチ抜いての出世頭で人望も厚く、その上、若くて家庭的な奥さんもいるなんて、どれだけ並外れた人物なんだよ……と、無駄な嫉妬を感じる以前に半ば呆れ果ててしまった。




「まだ幼い子供だし、出来合いの弁当だと可愛そうだな。早く帰って、一品だけでも何か作ってあげるといい。一緒に買い物へ連れて行って、食べたい物を聞くのも良いんじゃないか?」
「はい、そうします。風邪も治して貰わなきゃだし、頑張って作ってみます」
 ひとしきり奥さんの自慢話が終わって、森崎部長も気分が良くなったらしい。
 時計に視線を向けつつ、楽しそうに帰宅を促してきた森崎部長にそう返事をして振り返ると、皆が慌てて一斉に視線を逸らす様子が、しっかりと目の端に飛び込んできた。


 森崎部長と話をするのに夢中であまり周囲の様子を気にしてなかったけれど、やっぱり皆して仕事の手を止め、俺達の会話に無言で聞き耳を立てていたらしい。
 多分そうだろうとは思ったけど、やっぱり皆は今回も俺を驚かせようとして、あえて森崎部長の奥さんの歳を教えなかったに違いない。
 来週の昼食時、絶対に皆へ怒っとかなきゃ……と考えつつ、森崎部長と同期の三浦係長や先輩達が死にそうな顔して笑いを堪えているのを横目に、自席に戻って少々早めの帰宅準備にへと取り掛かった。






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2011/07/03  yuuki yasuhara  All rights reserved.