Eros act-5 02

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 いつからなのか分からないけど、誰かにずっと手を握られている気がする。
 それが気になって握り直してみると、直ぐにぎゅっと握り返されてきた。
 俺が先に進もうとする度に邪魔をして、強く引きとめてくる掌だけど、不思議とその感触を「嫌だ」とは思わない。
 むしろ、それに気をとられてしまい、どうしてもこの先に進めずにいる。
 戸惑っている俺に向かって、目前で話している姿が、手を引っ張っている姿が在る「俺が元居た場所」に戻るように……と、そう優しく促してくれた。
 そう言われてようやく、俺は別の所から来たんだと思い出した。


 手を握っているのが誰なのか。その姿が直ぐに頭の中に浮かんでくる。
 慌てて目を開けた瞬間、俺の顔を覗き込んでいた一稀と、真正面から視線が合った。






「――――ジェイ、大丈夫!? 俺の事、誰だか分かる?」
「あぁ、分かっている……心配するな……」
 目を覚ます前から、もうすぐ意識を取り戻しそうな、それなりの反応をしていたのかもしれない。
 片手を握ったままベッドの脇から身を乗り出し、不安気に覗き込んで早口で問いかけてきた一稀が、泣き笑いの表情に変わった。
「良かった……時々ちょっと動いたり、手を握り返してくれたりはしてたけど、全然起きてくれないから。このままずっと、いつまでも目を覚ましてくれなかったらどうしようって……」
「悪かったな、一稀……時々は意識も戻ってた気もするが、ぼんやりとしていたみたいだな。もう大丈夫だ」
 本調子には程遠いけれど、こういう軽い会話程度なら何とか可能な位には、頭の中もしっかりとしてきた。
 ようやく少しホッとした表情に戻り、椅子に腰掛けた一稀の背後から、彼と同じく覗き込んでいたらしい麻紀と目が合った。


 いつになく真剣な眼差しの麻紀を前に、俺の方が少しだけ驚いてしまう。
 それでも特に声をかけてくる様子も無く、無言で少し離れた所にあるソファに腰を下ろした麻紀が、携帯に手を伸ばした。
 彼が此処で付き添ってくれているのは少々意外だと思ったけど、一稀がいるのを考えると、何となく分かる気もする。
 俺の意識が回復したと、皆に連絡を廻しているんだろうなと思いながら、携帯でメールを打ち始めた麻紀を視界の隅に置いたまま、一稀の方に視線を向けた。




 ようやく安心してくれた様で、嬉しそうに顔を綻ばせている一稀の頬に、そっと手を伸ばして触れてみる。
 元から華奢で顔の小さな一稀だけれど、何となく少し痩せた様に思えるのは、絶対に俺の気のせいではないと思う。
 くすぐったそうに肩を竦めながらも、本当に嬉しそうに口元を緩めて、覆った掌に頬を摺り寄せてくる一稀の姿を眺めた後、彼とは反対方向にある窓の方に視線を向けた。


「今は夕方みたいだな。俺はどれ位、眠っていたんだ?」
「んと……今日で二日目になるのかな。俺が名前を呼んだら手を握ってくれたりはしてたけど、昨日は全然、起きなかった」
「……そうか。思っていたより、随分と長く眠っていた様だ。色々と心配をかけてしまったな」
 俺が目覚めた瞬間の一稀の表情や、即座にメールを打ち始めた麻紀の態度から薄々は察していたけど、自分で思っていた以上に、長い時間、眠り続けていたらしい。
 柔らかな日差しが差し込んでいる窓の方に視線を向けたまま呟くと、また手を握ってくれた一稀が、ほんの少しだけ首を振った。
「最初は凄く心配だったけど……お父さんが『体力を沢山使ってしまったから、少し多めに休んでいるだけだ』って。だから、元気になったら起きてくれると思って、それを待ってた。ジェイ、どこか痛い所とかは無い?」
「もう大丈夫だ。しっかりと目覚めたし、意識もはっきりとしている。まぁ、それなりに痛みはあるが、異常な感じは無い。特に問題はないだろう」
「ホント!? 良かった……あのさ、アメリカからお母さんが来てるんだ。もうすぐ叔父さん達も来てくれるって。今、お父さんと一緒に院長先生の所に話を聞きに行ってるから、先生も一緒に呼んでくる!」
 声を弾ませてそう告げる一稀が、勢い良く立ち上がった。
 遠い国で暮らす母が、既に駆けつけている事に驚いてしまったけど、それだけ俺が長い時間、眠り続けていたんだろう。
 急ぎ足でドアの方に向かっていく後姿を見詰めながら、離れてしまった一稀の掌で覆われていた部分が外気に晒され、急にひんやりと冷たくなったのを感じていた。






「ジェイ、一稀を庇って刺されたのか?」
 パタンと音を立ててドアが閉まった後、ソファに座っていた麻紀が立ち上がり、ゆっくりとベッドの方にへと歩み寄ってきた。
 普段と全く変わらない淡々とした麻紀の口調に、思わず口元を緩めてしまう。
 何の前置きも無く、唐突に本題を切り出してくる彼と接していると、自分が怪我人だと忘れてしまいそうになる。
 どうやら少々怒っているらしく、憮然とした表情で問いかけてきた麻紀に向かって、ベッドに横たわったまま頷き返した。


「そうだな。俺が一稀の身代わりで刺されるしか、気付いた時には手段が無かった。相手を倒す余裕も無い」
「状況的には理解出来る。でも、それを見た一稀がどう思うか……ジェイにもしもの事があったら、一稀が平常心を保てる筈がないだろう。ジェイの意識が戻るまで、一稀がどんな様子で待ち続けていたか……」
「あぁ、分かっている。だが、アイツには何があろうと、傷一つ負わせたくない。それだけは譲れねぇな。これが最善の策だったと、俺は今でも思っている」
 もし、一稀を庇った俺が命を落とす様な事になれば――――アイツがどんな精神状態になるか、それは充分に分かっている。
 それでも、一稀に掠り傷ひとつ負わせたくないと思う、俺のエゴの方が勝っていた。




「――――……まぁ、そう答えるだろうとは思っていたけど。とりあえず、意識は完全に戻った様だな」
 問いかけてきた麻紀から視線を外して天井を見詰め、それっきり黙りこんでしまった俺の姿に、麻紀が大きな溜息を吐いた。
 苦笑しつつ話題を変えてきた彼の方に、またチラリと視線を向けた。
「もう心配は無いだろう。一稀と話している間は、まだ少々ぼんやりしていたが。もう完全に戻ってきた。傷の痛みはあるが、その他には影響は無さそうだ」
「俺は医学的な知識がないから、聞いてもピンとこなかったんだけど……一番深いのは肋骨に当たった所で、腹膜に損傷は無いそうだ。深い傷ではないって事かな?」
「そうだな。俺自身、表層を滑ったと感じたんだが、それで正しかった様だ。どこか大きな血管を損傷したから、出血が酷かったんだろう」
 倒れていた瞬間の事や、病院に担ぎ込まれた時の状況まで、自分でも驚く位、克明に覚えている。
 寸前まで一稀が傍にいたから、それも当然の事なんだろう。
 彼と過ごした時間に関して、その状況がどんな内容であれ、忘れる筈がなかった。


「身体の方は何とか持ち応えてくれたそうだ。詳しい話は院長に確認した方が良いと思うけど、後は治癒を待てば良いと聞いている。出血多量だと聞いてたし、後遺症で意識障害とかがあるんじゃないか? と気になってたけど。ジェイは大丈夫そうだな」
「あぁ、俺も安心した所だ。多分、寸前まで一稀が声をかけてくれていたから、手術開始直前まで気が張っていたのが良かったんだろうな」
「分かる気がする。そういえば、手術後も結構、大勢の奴等が見舞いに来ていた。ゆっくり休めなかったんじゃないか?」
 優しい言葉などは返ってこないものの、麻紀なりに俺の回復を喜んでくれているのは伝わってくる。
 普段より穏やかな口調で問いかけてきた言葉に、軽く口元を緩めた。


「いや、かなりゆっくり出来た。こんなに長時間眠ったのは、ガキの頃以来じゃねぇか」
「それなら良い。まだ眠ってるのに話し声が煩いんじゃないかって、ちょっと気になっていたからさ」
「全く気にならなかった。ガキみたいに、随分とぐっすり眠ってた様だな。そのせいもあるだろうが、俺がガキの頃に亡くなった祖母の夢を見ていた」
 ふと思い出して教えてやると、麻紀が楽しそうに声を上げて笑った。
「え、おばあさんの夢か。何だかジェイらしくないな」
「そんな事ねぇよ。俺は祖母に育てられたからな。母は仕事が忙しくて週末にしか会えなかったから、祖母が亡くなるまで、ずっと二人だけで過ごしていた」
「へぇ、そうなのか。少々意外かも。こういう時に夢に出てくる位だし、仲良くやってたんだな」
「俗に言う『おばあちゃん子』ってヤツだろう。外が明るい間は近所のガキ共と遊んでいたけど、それ以外の時間は祖母と二人きりで、彼女の家事を手伝いながら本当に静かに暮らしていた。良い想い出だな」
 この話をすると「意外だ」とよく言われるけれど、子供の俺が祖母を慕っていたのは間違いない。
 俺が一瞬だけ、祖母達がいる場所に近づいてしまったから、幼い頃から「一度会ってみたい」と強請っていた祖父を連れて、祖母は色んな事を伝えに逢いに来てくれた。






 こうして目覚める直前まで、夢現の世界にいた俺は、祖父母とずっと話をしていた。
 祖母とはずっと会っていなかったし、祖父と話をするのは初めてだから、本当に嬉しくてしょうがない。
 あの瞬間だけは、祖母と最後に別れた時の、子供時代に戻っていた様に思う。
 話したい事が山の様に浮かんできて、楽しそうに聞いてくれる祖父母を相手に、俺はずっと話し続けていた。




 物心ついた頃には、祖父は既に他界していた。
 親戚一同を含めた家族達の中、ちょうど年代の狭間で産まれた俺には、同年代の従兄弟がいなかった。
 その分、育児の手が空いていた皆に可愛がられて育ったのも事実だけど、こういう思い出話になったりすると俺一人だけ話が分からず、ほんの少しだけ寂しく感じていた。


 日常を一緒に暮らしている祖母は当然ながら、連休になると戻ってきて遊んでくれる母や、近くに住む伯父や伯母達は、皆、祖父の思い出話を沢山持っているのに、俺一人だけが祖父と過ごした記憶がない。
 だから皆にそれを強請って聞かせて貰いながら、もうとっくの昔に他界してた祖父に、どうしても会いたくてしょうがなかった。
 大都会の真ん中で仕事に明け暮れている母だけが、一人やたらと元気が良過ぎるだけで、他の兄弟達は皆、生まれ育った郊外の街で、のんびりと暮らしている。
 そんな親戚達と同様に、亡くなった祖父も物静かな性格で声を荒げる事もない、本当に優しい人だったらしい。
 何枚も残っている楽しそうな写真を眺め、祖母に思い出話を聞かせて貰いながら、そのうち絶対に会いに行こうと、子供心に決めていた。




 祖父母との長い話も尽きそうになった頃、ずっと片手を引っ張り続けている力の事が気になった。
 それを思い浮かべた瞬間、祖母が「そろそろ帰るように」と、穏やかな笑顔で勧めてくれた。
 またそのうち会う時間がやって来るし、今はまだ、長い時間を留まるには早過ぎる。
 次に会う時は、今を共に過ごしている人と一緒に来れば良い――――そう祖父にも促されて目を開けた瞬間、一稀の姿がそこにあった。


 子供の頃みたいに深い眠りについていたから、祖母の事を思い出したのかもしれない。
 何度も何度も繰り返して眺め続け、皆から沢山の話を聞いて、俺の中で作り上げられていた祖父の姿も、祖母の記憶と一緒に思い出したんだと分かっている。
 でもそうじゃなくて、本当に祖父母が逢いに来てくれたんだ……と、そう願う気持ちも胸の中に潜んでいる。
 あれは夢なんかじゃなくて、一稀を残して深過ぎる眠りに吸い込まれそうになった俺を、祖父母がこの世界に戻らせてくれたんだと、そう信じていた。






 賑やかな声と共に、病室のドアがガチャリと開いた。
 満面の笑みを浮かべた一稀の姿と共に、両親と院長が病室内にへと入ってくる。
 嬉しそうな一稀の背後から顔を覗かせてきた、少々しかめっ面の母を見た瞬間、思わず苦笑いを浮かべてしまった。
 来日直後はどんな表情を浮かべていたのかは分からないけれど、一稀から俺の意識が戻ったと報告を聞いて、もうすっかり安心したんだろう。
 ガキの頃に負った怪我が回復しつつある時と同じく、母親らしい口調で無茶を叱ってくる彼女の姿越しに、大きなバッグを抱えた麻紀が、静かに病室を出て行くのが目の端に止まった。


 麻紀とはあまり話が出来なかったし、礼の一つも告げてないけど、彼には充分に伝わっていると思う。
 大きなバッグと共に付き添ってくれていた麻紀は、今頃きっと、真っ先に恋人の携帯を鳴らしているに違いない。
 とりあえず恋人に「今から帰る」と伝えて安心させてから、家に辿り着くまでの間、思い付く限りの皆に連絡を廻してくれる。
 その後は翔とゆっくり休んでくれれば良いと、俺が運び込まれた直後から付きっ切りだったであろう、麻紀の疲労感を考え、本当に申し訳なく思っていた。




 軽く傷の具合を確認してくれた院長が、経過は良好で特に問題は無いと教えてくれた。
 ホッとした表情を浮かべている両親を横目に、ベッド脇に置いたままの椅子に腰掛けた一稀が、また掌を握り締めてくれた。
 暖かな一稀の体温が伝わってきて、急に気分が落ち着いてくる。
 その手を軽く握り返してやると、ずっと口元を緩めている一稀が、ますます嬉しそうに頬を綻ばせてくれた。


 幼い頃を一緒に過ごし、無償の愛を捧げてくれた祖母と同じくらい……それ以上に、一稀は俺を暖かく包んでくれる。
 どんな事が起きても無条件に、一心に俺を慕い続けてくれる彼を置いて、遠い所に行く筈がなかった。
 祖父母が勧めてくれた通り、次に彼等と再会する時には、一稀を連れて行って会わせてやろう……
 今の俺との時間を過ごしている姿達と話しながら、幼い俺を見守ってくれていた人に、そう胸の奥で誓っていた。





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