Eros act-5 19

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 指定されたビルに入り、真っ直ぐにエレベーターホールに向かっていく。
 各所に立っている警備員達の前は一切止まる事なく素通りしても、チラリと視線を向けてくるだけで、特に引き止められる事はなかった。
 もっとも元からそういう当たり障りのない警備状態な筈がなく、彼等にはあらかじめ俺の来訪が伝えられているらしい。
 あちこちで警備員達に呼び止められたり、煩雑な手続きを取っている者達を尻目に、サッサとエレベーターに乗り込んで目的の階を押した。




 目的の階に到着してエレベーターのドアが開くと、真正面に男が一人立っていた。
 軽く目礼して歩き始めた男の後に続いて、フロアの奥にへと向かった。
 このビルに関しては事前にある程度、昼食を共にした武内代議士から内部の様子や構成を聞いていたし、エスコート役までいるから何も考える必要は無い。
 一番奥にある一室のドアを開け、中にへと促してくれた男に従い、部屋の中にへと足を踏み入れた。






「久しぶりだ、ジェイ。元気そうで良かったが、出向いて貰って悪かったな」
「いや、俺の方こそ随分と待たせてしまった。退院して直ぐにでもと思ってたが、予想外に遅くなってしまった」
 初めて出会った時と同じく、人当たりの良さそうな笑顔を浮かべた藤原が、和やかに右手を差し出してくる。
 軽く握手を交わしつつ挨拶をして、向かい合わせのソファに腰を下ろした。
 座るのとほとんど同時に、案内をしてくれたのとは違う男が歩み寄り、テーブル上に静かに飲み物が差し出してきた。
 俺の到着時間はあらかじめ分かっていたとは言え、普通の接待では目にした事のない手際の良さに、少々面食らってしまう。
 丁重に頭を下げる男に礼を告げて、向かい側の藤原にへと視線を戻した。


「此処へ来る途中、入り口前で阿公と少し話をしてきた。それで到着が少し遅れてしまった」
「分かっている。阿公を呼んでいたのは偶然だ。他の用件で話をしていたんだが、何気なく『阿公と入れ替わりでジェイが来て、彼と話をする予定になっている』と告げたら『私も退院後は会ってないから、ちょっと立ち話をして帰ろう』とか、何食わぬ顔して突然言い出した」
「そうなのか……もう聞いているだろうが、漢方薬店の店主だと自己紹介をして俺の店に出入りしていた。そういう意味では長い付き合いになるけれど、彼が台湾マフィアの首領だと言うのは、今日、初めて聞かされた」
 話したい事は多々あるものの、とりあえずまだ記憶に新しい知ったばかりの驚きを告げると、彼も苦虫を噛み潰した様な顔で頷いた。
「あぁ、俺も全く同じだ。阿公は同性愛者ではないし、まさかジェイと顔見知りだとは……しかも、深水が阿公を連れて行ったとか、本当に予想外も甚だしい」
「それも本当に驚いたな。ジャスミンとも昔からの顔馴染だが、彼が深水かもしれないとは想像すらしなかった。それは街の連中、全員がそうだったらしい」
「事情が事情だ。深水も悪気は無かっただろうし、言い出す切欠が無かったんだとは思うが……阿公は全く別だろう。以前から散々ジェイの話をしていたのに、今まで俺には一言も説明は無かった。阿公の性格は知り尽くしているつもりだったが、また一杯食わされた気分だ」
 黙っていた事を怒る以前に呆気にとられた俺同様、藤原も同じ気持ちを味わったらしい。
 溜息混じりで答えてくれた彼を前に、苦笑を返した。


「阿公と互角に渡り合うには、お互いにまだまだ修行が必要らしい。それが分かっただけでも良しとしよう。慶から聞いたが、一稀の件は不問にしてくれたそうだな。その礼を言わなければと考えていた」
 藤原がその気になれば、一稀の存在を完全に消し去ってしまうくらい、本当に造作ない事だろう。
 ましてや自身が襲われ傷まで負ってしまったのに、その相手を不問にするなど、異例中の異例な事態に違いなかった。
「お互い様だろう。ジェイの方が手酷い傷を受けた。恋人が刺される瞬間に居合わせ一部始終を目撃していたのなら、何らかの報復を考えても不思議じゃない」
「その気持ちは充分に分かるが、俺としては、もう少し穏便な方法を考えて欲しかったがな。一歩間違えれば大変な事態になっていた」
「いや、俺が完全に油断していただけだろう。少し考えれば真意に気付けた筈だ。それにしても随分と可愛いらしい恋人だな。俺の予想というか……正直『男の恋人』ってヤツが全く想像出来なかったんだが、良い意味で意外だった」
 藤原と一稀がどんな会話を交わしたのか、全く想像もつかないものの、少なくとも一稀に対して悪いイメージは無いらしい。
 含み笑いを混ぜつつ楽しそうに話す藤原を前に、珈琲を一口飲んだ。
「そうだな。こう言うと皆は笑うが、俺にとっては本当に自慢の恋人だ」
「あぁ、そうらしいな。深水と阿公から普段の様子を教えて貰った。本気で溺愛してると聞いたが、今のジェイを見れば納得出来る。だから深水も一稀の方へと狙いを定めた」
「ジャスミンは普段の俺達を知っているから、そう考えるのが普通だろう。その辺りについては、本人からも詳しい説明と謝罪を受けた。とりあえず時間稼ぎを……と内心かなり焦ってたらしいが、だから余計に悪い方にへと動いてしまった様だな」




 冷静になって考えれば、あの男は一稀の腕を狙っていたんだと容易に気付く。
 明らかに乱闘慣れしている素人ではない連中が、ナイフを片手にあんなにも大振りで切りかかるなど、本気でない事はどう考えても明らかだろう。
 でも、それがあらかじめ分かっていたとしても、一稀が切りつけられるのを黙って見逃がせる筈がなかった。
 刃先で軽く切り付ければ充分だと二の腕辺りを狙って上から下にへと振り下ろした先に、俺が一稀を突き飛ばして、自ら割って入り飛び込んだ。
 おかげで予想外に深い傷を負ってしまったし、皆にも多大な迷惑をかけてしまったものの、他に方法は無かったと今でも思うし、後悔はしていなかった。




「……ジャスミン……か。その通称と深水とが、ようやく一致し始めてきた。最初はかなり驚いたが、それなりに慣れてきた。何より、あんなに楽しそうに話す深水は初めて見た気がする。やっぱり今までは無理に自分を偽っていたんだろうな」
 俺へ話しかけると言うより、半ば独り言に近い口調で呟いた藤原の方へ視線を向けた。
「退院直後に俺の所へもやって来たが、あれからずっと皆への謝罪と挨拶に明け暮れている。店長もアイツに任せる事にしたそうだな」
「今回の不祥事をどう吟味しても、何事も無かったかの様に……で済ませる訳にはいかない。あれが最適の処遇だと判断した。風俗部門は小林という男が纏めているが、彼の補佐も任せる事にした。街の連中との橋渡しも上手くやっている様だ」
「ジャスミンは界隈に知り合いが多い。彼が関わっているのなら誰も反対はしないだろう。此処は元々、深水が利用していた場所だと武内代議士に聞いた」
「その通りだ。此処はアイツの為に用意した場所だ。深水が拠点として利用しやすい様に、場所や人選までの一切を彼の一存で仕切っていた」
「なるほど、だから男ばかりなのか。この方が楽なんだろうな」
 此処での深水がどんな人物か分からないけど、少なくとも俺が知っているジャスミンは「女性と話をするのは苦手だ」と話していた。
 同じく気持ちが女性的な男でも、慶や莉緒などは女性の知人も多い。
 その辺りは個人の得手不得手も影響しているものの、自分で管理可能な場所くらいは快適な環境に……と考えても、何ら不思議ではなかった。


「そういう華々しさが必要な場ではないし、むしろ男が主役の世界だ。だから特に疑問は持ってなかったんだが。単純にアイツは『女そのもの』が苦手らしい。自分の身と比べて辛くなるそうだ」
「あぁ……俺は何となく理解出来る。多少の見せかけはあったにしても男が多い政治の世界は、深水にとってそれなりに居心地の良い仕事だったんじゃないのか」
「深水もそう話していた。この仕事は全く苦に感じなかった……と。だから余計に言い出せなかったんだろう。ある意味、俺よりも真摯に取り組んでいたと思う。彼がほとんどの話を進め、俺は最終決定を下すだけで良かった」
「ジャスミンとは仕事の話など一切交わした事はないが、単なる世間話にしても、頭の回転の速い奴だと感じた。それに面倒見の良い性格でもある。お前の補佐的な仕事も楽しく感じていたんだろう」
「そうなんだろうな。深水は俺の片腕……いや、半身と言っても過言じゃない。そのアイツと離れてしまったからな。俺も今まで通りにいかない。暫くはこの場での調整に忙殺されるだろう」
 ガラス扉で仕切られた隣室に顔を向け、各々の仕事に励んでいる部下達を見詰めたままの藤原が、静かな声色でそう言葉を続けていく。
 深水の代役を探すでもなく、自らがこの場で指揮をとる事を決心した彼は、藤原なりの禊を行っているのかもしれなかった。




「しばらくは忙しい日が続きそうだな。売り専クラブの出店は1件だけに止めるのか?」
「年単位でそうなると考えている。小林も深水から話を聞いているが、やはりどうしても雰囲気的に掴みきれてない所が多い。アイツは此方側の風俗も仕切っていて多忙な奴だ。急がせるつもりはない」
「それが懸命だな。俺はあの界隈しか知らないが、少々独特な繋がりは多いだろうと思っている。それを理解してからの方が良さそうだ」
「あぁ、充分に納得している。それを聞こうと思って、ジェイと話し合える機会を待っていた。此処に呼んだのも用件はソレだ」
 隣室に視線を向けていた藤原が、俺の方に向き直ってくる。
 真っ直ぐに俺を見詰めて話しかけてきた彼は、言葉を切ると軽く苦笑いを浮かべた。


「ジェイや慶だけでなく深水に武内代議士……おまけに阿公まで出入りしていたのに、俺は何も気付いてなかった。慶が何度も咎めてくれていた通り、俺は本当に何一つ理解してなかった。今回は俺の完敗だ。だからこそ、今でもあの街に行って見たいと思っている」
「それを引き止める奴はいないだろう。塀に囲まれ完全閉鎖している訳じゃない。個々の店によって入店の容易さは違うが、普通に遊ぶだけなら半数以上は入店可能だ。俺の店に来るのも歓迎するぞ」
「単純に遊びが目的なら、それで充分だろうけどな。もっと違う意味で……だ。ゲイじゃない阿公が受け入れられたのに、俺は頭から拒絶されてしまった。阿公だけじゃない、中川だって元々は同性愛者ではない。俺だけが拒まれた理由を知りたい。慶も『実際に体験しなければ分からない』と言っていた。当然そうするつもりだが、単に遊びに行くだけで終わらせたくないと考えている」
 今まで「自分は異性愛者だから拒絶された」と思っていたのに、ゲイでもない阿公が易々と出入りしていた事実も、彼にとって衝撃が大きかったのかもしれない。
 真顔で訴えてくる藤原を前に、返す言葉を考えた。


「俺は同性愛者だと公表する事に躊躇いを持ってないが、深水みたいにそうじゃないヤツもいる。対外的に自分を偽って生きるのは人間として普通だろうが、俺達はどうしても、その割合や度合いが大きくなっている。唯一、自分の気持ちにある程度、自然に過ごせるのがあの街だ。中には自覚している通り、無様で滑稽に見える事になるかもしれない。だが、あの場でそれを笑う奴はいない。皆、自分の身一つで生きている所だからな」
「――――……俺はそれを笑う奴だと思われたのか? それとも、悩みを理解出来そうにない奴という意味なのか?」
「いや、少し違う。とにかく色々な意味で警戒心の強い奴等がほとんどだ。俺達にとっては弱味を晒けだして過ごしている。正体不明のヤツにそれを影から一方的に観察されて、快く思う者はいないだろう」
「そういう意味か……そういう拒絶感だとすれば、何となく理解出来るかもしれない。俺は裏から指図するのが常だ。確かに不気味に思われても仕方ないだろうな」
 彼が征しやすい界隈など幾らでもあるし、もっと楽に金になる話も多々存在している。
 それなのに、彼は何故だかあの街だけを異常なまでに執着し、何に拘っているのか判断つきかねるものの、中に入り込みたがっているのだけは伝わってきた。


「あの辺りにも、何人かそういうタイプの男はいる。特に『麻紀』という奴だが、そのうち絶対に顔を合わせるだろう。とりあえず何をするにしても、アイツに話を通してからでないと後々面倒な事になる」
「その名前なら知っている。かなり好戦的な性格の男だと聞いたばかりだ。深水が間を取り持ってくれるらしいが、こういうやり取りも普通の風俗街では聞かない話だ。名前を聞いただけで、皆が何処の誰だか分かるのもあり得ない。仲間意識が強いんだな」
「さぁ、どうだかな。皆、自分の場所を守っているだけだと思う。誰かの為にじゃない。自分自身の居場所を確保する為に、あの街を全員で守っている。それだけだ」


 皆を護ってやろうとか、そんな綺麗事で動いている奴などいないし、口先だけでもそう話す者もいない。
 麻紀やジャスミンは自分の利益を得るために一稀を襲おうと企んだし、俺も自分の店を出したり一稀を恋人にして落ち着くまでの間は、それなりに荒っぽい真似もしてきた。
 それを本人に向かって「悪かったな」の一言で許し合う関係など、悪く言えば傷を舐め合って生きている様なもんだと思う。でも、決して居心地は悪くない。
 だから余計に侵入者を排除して壁を作り、秘密裏に巨大な閉鎖社会を築き上げていた。




「深水からの情報だが、武内代議士や阿公以外にも、俺の正体を知っている奴が数多くいるそうだな。彼等の話からだと、どうしても良い印象は持てそうにない。だから余計に警戒されたのか……」
「基本的に少数派独特の用心深さがあるのは仕方ない事だと思う。とりあえず皆と腹を割って話をしてみれば、お互いに納得出来ると思う。単純に興味本位でも良いし、金を稼ぐのが目的ならそれを公言すれば良い」
「そうか……俺は出来る限り、人前で目立ちたくない。裏でコソコソと陰謀をこらし、人を影で操るのが至上の享楽だと思っている。暗躍するのが得意な、性根の曲がった男だと自覚していが、それを皆に公言しても大丈夫なのか?」
 ククッと微かに笑いながら、藤原は楽しそうに呟いた。
 やけに嬉しそうな姿を見詰めているうちに、藤原が何故、ここまでの執着心を見せているのか、何となく分かった気がした。


「あぁ、問題ない。ある意味で自分勝手な、そういう奴等ばかりが揃っていると言っても過言じゃない」
「それを聞いて安心した。俺自身、男には全く興味が無いと思っていたのに、一稀の誘惑にあっさりと乗ってしまった。男の欲望なんて所詮そんなモンだ。同性愛に傾くかどうかは断言出来ないが、それなりに馴染めそうな気がしている」
 口先だけの戯言ではなさそうな、思いの外、真剣な口調で呟いた藤原の顔へ外していた視線を戻した。
「……それは少々意外な発言だ。何となく、浮き夜事には興味を持たない、潔癖な印象を持っていた」
「俺が潔癖に見えたか? そう言われたのは初めてだな。俺は家庭を持っていない。恋愛など興味も無いし、女なんて性欲を解消する為だけの道具程度に考えていた。だから逆の意味で躊躇いなく、風俗界に手を出せたんだと思っている」
「なるほど。そういう部分での淡白さを、俺は冷めた雰囲気だと捉えてしまったのかもしれない」
「多分、そうなんだろう。でも、ジェイ達を見ていると、恋人のいる生活ってのも案外良さそうに思えてきた。愛欲の世界ってのも悪くなさそうだ」
 ずっと前に武内代議士から聞いた藤原の過去が、真顔で話し続ける彼を見詰めているうちに、ふと脳裏を過った。


 本人がそれを望んだ結果であり、決して苦だとは考えてないと思うけど、彼は祖父の跡目を継ぐ事を決めた子供の頃から、長い間、人目を避けて生きていく孤独な日々を過ごしていた。
 祖父亡き後は本心で話せる者もなく、腹心の深水と時折プライベートな休息時間を過ごすだけの、孤絶した人生だったと思える。
 そんな孤独の身を嘆くほどメンタルの弱い彼ではないけど、祖父から託された必要悪な存在を受け継ぎ、自身で始めた事業も落ち着いてきた今、自分と対等に渡り合えそうな者達や大人数の話し相手が欲しくなったのかもしれなかった。




「一稀は良い恋人だな。素直で可愛いし、自分の考えもしっかりと持っている。ジェイにはピッタリの相手だ」
「自分でもそう思っている。少々向こう見ずな所だけが、未だに唯一の悩みの種だ。もう少し落ち着いてくれると安心なんだが……」
 とりあえずそう答えてやると、つい先日、一稀の無鉄砲さの犠牲になったばかりの藤原は、随分と楽しそうに笑い出した。


 狙いを定めてしまった彼が、多少の妨害があった所で何かを簡単に諦めるとは思えない。
 あらゆる手段を講じて入り込んできた藤原と、あの街の中でこうして話をする日が来るのは、意外と近いのかもしれないと思っている。
 曲者揃いな皆の中に、さらに一癖も二癖もある藤原が加わってしまうと、落ち着いた日々が送れるとは考え難い。
 より一層、賑やかな雰囲気になりそうな街の様子を思い浮かべながら、詳細を色々と訊ねてくる藤原と二人で、あのパーティ以来になる久しぶりの時間を過ごしていった。






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2011/06/17  yuuki yasuhara  All rights reserved.