Eros act-5 12

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 慶に向かって唐突に「藤原と話がしたい」などと言い出した一稀の横顔を、隣に座ったまま無言で見詰める。
 一瞬、かなり戸惑った表情を浮かべた慶も、暫く黙って考え続けた後、普段と変わらない様子で微笑んだ。


「そうだよね、一稀は彼に聞きたい事が沢山あるんだろうな。呼び出す事自体は簡単に出来るけど、一人で大丈夫かな。僕か麻紀が一緒に行こうか?」
「ううん、一人で平気。誰かに連れて行って貰ったら、俺は聞いてるだけになると思うんだ。そうじゃなくて自分で話したいから」
「分かった。でも、単純に話をしたいと言ってる人がいると呼び出しても、絶対に会ってくれないから……そうだな、僕が話をしたいって呼び出して、藤原さんがその場に現れてから『ちょっと遅れそうだから、慶から相手しとく様にと頼まれた』って事にしようかな。多分、嘘だって気付かれると思うけど、一稀に対して怒ったりはしないから大丈夫」


 こういう類の事を一稀が言い出した時、頭ごなしに宥めて聞き入れてくれる性格じゃないから、表向きは同意を示しつつ、上手く話をはぐらかせて断るつもりなんだろうなと思ったのに、どうやら慶は一稀を藤原に引き合わせる気でいるらしい。
 本当に一稀だけで行かせるつもりなのか? と驚きつつ、二人の会話を見守った。
 和やかに一稀と打ち合わせている慶が、あの一稀の表情を見て、彼が本心では何を考えているのか気が付かない筈もない。
 いつになく硬い表情の一稀と、それを意に介せず和やかに携帯を手に話し始めた慶の声を聞きながら、手元に置いたままのファイルをパラパラと捲った。




 改めて眺めてみると、真正面を向いた姿などの彼から率先して写っている写真は見当たらないものの、ジャスミンこと深水の横顔や後姿は結構な枚数で確認出来る。
 慶が話していた『深水』の姿と、俺達が知っている『ジャスミン』との違いを考えてみれば、どうして深水が事件を引き起こしてしまったのか……その気持ちは容易に想像がついてしまう。
 俺がやってしまった事が原因となって、思いがけず一稀に重傷を負わせてしまった時と同じく、恐らく焦りまくって我を忘れていたであろう深水にも、きっと他意は無かった筈だ。
 ジェイの襲撃現場を目撃して一番驚いたのは彼だろうし、今現在、深水がどんな気持ちでいるか――――それは本人に聞かずとも、もう充分に理解出来てしまった。




「一稀、藤原さんと待ち合わせ出来たよ。一時間後になるけど、それでも大丈夫だよね?」
 あっさりと藤原との約束を取り付けた慶が、携帯の通話を切りつつ、一稀に向かって問いかけた。
「ん、ちょうど良い位かも。俺も一旦、家に帰って準備したいしさ」
「そうだね。待ち合わせ場所まで一緒に行こうか。何かあったら大変だし、一人で待ってるのは退屈じゃない?」
「平気。だって犯人も分かったし、関わってる人に会いに行くんだから。襲ってくるヤツなんかいないって」
 犯人がジャスミンだと分かってしまえば、もう一稀が狙われる筈がないし、彼一人で出歩く事にも不安はない。
 その辺りに関しては問題ないとは思うけれど、寂しがり屋で単独行動を嫌がる彼が、顔すら知らない初対面の男に一人で会いに行くと言い出した事に、ほんの少し驚いた。
 少々怖がりな所もある一稀だけど、本来は強気な子だし、ジェイが絡んだ問題となれば黙って見過ごす訳がない。
 つい一時間程前までは、一人じゃ外も歩けない位に怯えてたのにな……と呆れ半分で思い返しつつ、慶と詳細を打ち合わせている一稀の様子を見守った。






「――――……慶、一稀が本当に大人しく『話し合い』をすると思ってるのか?」
 一人で店を出る一稀の姿が完全にドアの外にへと消え去った後、慶に向かって問いかけてみると、彼は軽く頬を緩めた。
「違うんじゃないかな? 一稀は口下手だし、どちらといえば先に手が出るタイプだよね。それに人見知りが激しい子だから。話なんてほとんど無理だと思うな」
「そう思うのに止めなかったのか。慶にしては珍しい。まぁ、それもだけど、慶は藤原が黒幕だと思っているのか?」
「ううん、それは違う。多分、藤原さんは何も知らないと思うよ。台湾マフィアの人達は、深水さんが個人的に動かしたんだろうな。話を聞いてビックリするんじゃないかな」
 相変わらずの和やかな笑みを浮かべながらも、あっさりと言い切った慶からつまみを受け取りつつ、わざと思いっきり溜息を吐いてやった。


「何だ、それは……そう思ってるなら、一稀を止めれば良かったのに」
「だって、一稀の気持ちもすごく分かるから。理由は何であれ、大切な人が傷つけられたのに黙って見てるだけって、僕だって嫌だと思うんだ。それに、藤原さんが今回の事件を知らなかったとしても、彼の部下が暴走してしまったのは事実だから。その責任を負うのはボスとして当然でしょ?」
「まぁ、そう言われたら返す言葉も無いけどさ。慶はアイツの肩を持っていたし、少し意外な気がするな」
「それとこれとは別って感じかな。もし、莉緒ちゃんがお客さんとトラブルになった場合、僕が『知らなかった』って知らん振りなんて出来ないでしょ。それと同じ事だから。一稀がどんな気持ちになったのか、直接知っておくべきだよ」
 性格的には本当に穏やかそのもので、怒っている場面すら滅多に見かける事のない慶だけど、仕事に関してはしっかりとした基準を持っている。
 そもそも言っている事も正論だし、確かにそう言われると一稀を止める理由は無いよなぁ……と返す言葉もなく無言で考え込んでいると、莉緒が隣に立っている慶の方へ不安気に視線を向けた。


「――――え? 莉緒、お客さんに怒られる様な事をしちゃって、ママが謝ってくれたの?」
「あ、全然違うよ。例え話だから心配しないで。莉緒ちゃんは皆の人気者だし、いつも褒められてる話ばかりだよ。安心して良いからね」
「ホントに? それなら良いけど……でも、莉緒はママみたいにお話するのが上手じゃないから。もっと色々覚えて、大人の会話が出来るようになりたいな」
「もう充分に出来てると思うけどな。最初の頃は少しだけぎこちなかったけど、今は普通に出来てるよ。僕も莉緒ちゃんとお話するのは、とっても楽しくて大好きだな」


 自分の店で働く従業員をとても大切にしている慶は、一番最後に入ってきた子供みたいに若い莉緒を、特に気にかけて色々と手取り足取り教え込んでいる。
 若い頃は女装をしていた慶と同じく、いつも可愛い服装に身を包んで女の子的な気持ちを持っている莉緒だから、もしかしたら昔の自分を見ている様で放っておけないのかもしれない。
 莉緒自身も素直な大人しい性格で、誰に対しても和やかに接するタイプだから、他の従業員達から妬まれる事もなく皆から大事にされているし、あっという間に店の人気者になっていた。
 やっぱり似た者同士で波長が合うのか、きゃあきゃあと賑やかに話をしている二人を前に、徐に溜息を吐きつつファイルを閉じた。




「……まぁ、慶も色々と分かった上で、藤原と一稀を引き合わせたんだろうとは思うけどさ。一つだけ、心配な事が無くはないと言うか……」
 もう別な話で盛り上がっている所に悪いなぁとは思うけど、このまま放置しておく気分にもなれない。
 何だか女同士の親子みたいな雰囲気で話している慶と莉緒に話しかけると、莉緒の髪に飾ってあるリボンの位置を直してあげている慶が、そのまま軽く小首を傾げた。


「どうしたの? 麻紀らしくない言い方だね。いつもはハッキリと断言し過ぎな位なのに」
「まぁ、そうなんだけどさ……もうかなり前の話になるけど、ティコと一稀にナイフをプレゼントした事がある。それで二本のうち、片方は完全に研ぎを入れてて、多分、直ぐにでも使えるヤツだった。ティコと一稀のどっちに渡したかは覚えてないんだけど、まさかソレを一稀が持ってて、藤原の所に突撃したりはないよなーとかさ……」
 店を出る時に「家に帰って準備もあるから……」と話していた一稀の、その「準備」って言葉が妙に気になってしょうがない。
 普通の女性以上に服装チェックや身嗜みに余念のない慶や莉緒じゃあるまいし、一体、何の準備をするつもりなんだろうなぁ? と考えながら、とりあえず慶に向かって冷静な意見を聞いてみた。






 もう何年も前、翔と同棲しようと決めた時に、少しだけ俺の荷物を整理した。
 その時に棚に並べていたショーケースも整理しようと思って、コレクションしていたナイフの幾つかを、こういうのが好きそうな身近な皆に何本かプレゼントして廻った。
 ティコや一稀にも何となく目に留まった二本をあげただけで、そもそも深く考えずに渡してしまったから、細かい状況までは覚えていない。
 ただ、物珍しそうに眺めつつ「ケースに入れて飾っとこうかなぁ」と淡々としていたティコとは逆に、一稀は「俺、コッチの方が切れそうで良いな!」とか「本当に色々切れるの?」とか、やたらとテンション高く騒いでいたのだけは、妙に印象深くて未だに何となく覚えていた。


 ティコは言葉通りに小さなコレクションケースを買ってきて、今でもリビングの片隅に飾っているらしいけど、一稀は「ステーキにする牛肉の固まりも切れた」とか真顔で報告してきたから、どうやら日常の料理に使おうと考えたらしい。
 ナイフの楽しみ方は人其々だし、刃物は使ってこそ価値があるから文句を言うつもりはないけど、サバイバル中ならともかく、普通はあまり日常の料理に使わないんじゃないかなーと、その言葉を聞いた時に少々驚いてしまった記憶もある。
 あの言葉から察するに、一稀に実用的な方が渡ってしまって、今でも何かと使われ続けていそうな気がしてきた。


 そういえば、ジェイもアメリカで生活していた頃は日常的に所持していたそうで、以前、雑談でナイフの話になった時、やたらと詳しい話を知っていて少々感心した事もある。
 妙な所で生真面目で凝り性な一稀だから、ジェイに手入れの仕方を教わって磨き上げて研ぎを入れて、今でも普通に何やら使っていそうな気がしてならない。
 やっぱり藤原の所へと送り出す前に、一言声をかけておくべきだったかなぁ……などと考えていると、莉緒の髪を直し終わった慶が、思いっきり怖い顔して睨んできた。




「ちょっと、麻紀! そんな危ない物を一稀に渡しちゃダメでしょ」
「そうなんだけど。まさかこんな事態になるとは思わないだろ。俺だって、ショーケースに飾っておくのに綺麗だから集めてるだけで、それを持ち出して使うつもりは無い。ティコも飾ってるとか言ってたんだけどな」
「ティコは堅実派だし、恋人もああいう人だから落ち着いてるけど。一稀はジェイの言う事が全てだからね。ジェイがナイフを飾っておくとは思えないんだけど」
「……ちょっと甘かったかもな。あの二人だからなぁ。でも、まさか実際に使うとは思わなかった」
 確かに俺自身も、ちょっと軽率だったと反省するべき所はあるものの、あの時点でまさかこんな事態が起こるかも……と、あらかじめ予想出来る訳がない。
 何だか母親みたいな口調の慶から叱られても言い訳が出来ず、とりあえず大人しく怒られていると、彼の隣に立ったままの莉緒が、落ち着きなく携帯を触っているのが目に入った。


「……ママ。一稀ちゃんに『まだお家にいるの?』ってメールしたんだけど、お返事こないみたい……大丈夫かなぁ……」
「一稀は何か考え始めたら他の事を忘れちゃうからね。多分、携帯を鳴らしても気付かないだろうけど、基本的に大丈夫だと思うな。今回は僕が呼び出したから、色々と絡んでるのは分かってるからね。もし、一稀が何か行動を起こしたら、藤原さんから僕に連絡が来ると思う」
「ホントに? ジェイみたいに怪我したりしないかな」
「その時の感情で動く人じゃないから。少なくとも、一稀に危害が加えられたりは無いんだけど……むしろ、藤原さんの方が危険かもね」
 不安気に呟いた慶の言葉に、二人の話を聞きつつ頷いた。
「俺もそう思う。ティコならともかく、一稀だからな……雰囲気読んで手加減するとか無理だろう。アイツは頭に血が上ると我を忘れてしまうタイプだ。ちょっと気付くのが遅過ぎたか」
「そうだよね、そもそも電話越しの説得を聞き入れてくれるとは思えないし……直接、現場を押さえるしかないかも」
 慶が考え込みつつ話した瞬間、彼の後ろにある戸棚のいつもの場所に置いてあった、彼の携帯が鳴り出した。
 腕を伸ばしてディスプレイを確認した慶が、少しだけ頬を緩めて通話ボタンを押して耳に当てた。


「あ、ジェイ。電話しなきゃと思ってた所なんだ。丁度良かった………………うん、一稀なら大丈夫。今はいないけど、2時間後くらいにソッチに送り届けるから。心配しなくていいよ……そうだね。博人が連れて行くから安心して」
 どうやら一稀が戻ってこないと心配したジェイが、慶の携帯を鳴らしたらしい。
 相変わらず甘ったるい恋人同士なんだな……と、いつまでもやたらと過保護なジェイの言動に呆れながら、慶の声に無言で耳を傾けた。
「そうだよ、一稀が一人で出かけた…………あ、深水の方も分かったよ。皆が『ジャスミン』って呼んでる人だって。麻紀が確認してくれたから間違いないと思う…………あ、そうなんだ。分かった、一稀の方は心配しなくても良いから…………じゃあ、戻ってくるまで待っててね」
 ジェイとの短い会話を終えた慶が、クスクスと笑いながら電話を切った。




「やっぱり、ジェイも『ジャスミン』で分かったみたい。それなら、もう一稀だけで出歩いても心配ないだろうって、ジェイも言ってた」
「あぁ、ジャスミンに関してはそういう感想になるだろうな。藤原の所へ向かったのは知らせなかったんだな」
「ジェイは一稀に関しては心配症だから。でも、僕的には藤原さんの方が心配だな。一稀がナイフを持ち出してる可能性もあるし、大事になっても困るからね……」
 通話を切った携帯を手にしたまま、また慶が真顔で考え始めてしまった。


 俺達の話が聞こえたらしく、他の従業員達とテーブル席で騒いでいた客の一人が「ジャスミンがどうかしたのか?」と、大声で問いかけてきた。
 随分と呑気な口調で話しかけてきた彼も、どうやらジャスミンと顔見知りなのに、やっぱり慶から深水像についてを聞いても、同一人物だとは考えてもいなかったんだろう。
 当分はこの話題で大騒ぎになるだろうなぁと覚悟しつつ、テーブル席にへと説明に向かう莉緒の姿を見送った。


 皆への説明は莉緒に任せるとして、俺達は大至急、一稀の方を考えなくてならない。
 一稀がナイフを持って行くかどうかは憶測の域でしかないけど、少なくとも何かを考えての行動なのは事実だし、本当に話し合いだけで済むとは思えなかった。






「――――……僕達が行っても無駄だろうし、やっぱり博人や中川店長に任せる方が良いと思うんだけど。麻紀はどう思う?」
 とりあえずの最善策を提案してきた慶に向かって、カウンターに頬杖ついたまま頷くしかなかった。
「そうだな。最悪の場合、ナイフを手に暴れている一稀を取り押さえる事になるかもしれない。俺や慶が行っても手に負えないだろうし、喧嘩沙汰に慣れている三上や中川の方が適任だろう」
「博人に電話しとかなきゃだけど、まだ警備会社で調査中かも。とりあえず『話が終わったら直ぐに電話して』ってメールを入れとくね。でも、直ぐに連絡ついたとしても、場所的に戻ってくるまで30分位かかるから……一稀が藤原さんと待ち合わせ時刻には間に合わないだろうな」
「それで良いんじゃないか。直ぐに現場に到着して引き離した所で、一稀が納得するとは思えない。さすがに顔を合わせた途端に刺したりしないだろうし、少し位は好きにさせておいても平気だろう。藤原は大柄な方なのか?」
「博人と同じ位だから、大柄な方になるだろうな。元々、お付きを沢山引き連れて廻るのを嫌う人だから、自分の身は自分で護れるよう、普段から結構身体を鍛えてる方なんだ。だから一稀がいきなり襲い掛かったとしても、そう簡単に怪我するとは考えられない。だから、あまり心配しなくても良いとは思うんだけどね……」
 また少々口篭ってしまった慶を前に、同じく何とも言えない微妙な気持ちのまま、すっかり醒めてしまった珈琲を飲み干した。


 穏便な解決策を探るとすれば、今すぐにでも一稀を此処に連れ戻し、ジェイの元へ深水と藤原を呼んで話し合いをさせるのが一番だろうと、それは言われなくても分かっている。
 でも、最愛の恋人が自分を庇って傷付くのを目の当たりにしてしまった、感受性が強過ぎる一稀の気持ちを考えると……どうしても、彼を引き止める気にはなれなかった。


 ジェイが目覚める瞬間まで、ずっと無言で身動ぎもせずに付き添っていた一稀の姿を、俺はきっと一生忘れる事はない。
 多分、慶も同じ気持ちなんだろうな……と思いながら、新しく珈琲を淹れ始めた彼の後姿を、ぼんやりと眺めていた。






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