Eros act-4 20

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 普段より、ほんの少し睡眠時間を削られただけで悲鳴を上げてしまう身体を、心底情けなく感じてしまう。
 今更、人並以上に健康になりたいなどとは願っていない。
 せめて、こんな時だけでも多少の無理が利けば……と思うのに、気持ちだけが先走っていて、身体は全然それに従ってくれそうになかった。




 数人掛けの大きなソファに横たわったまま、ジェイの容態を伝えに方々を廻ってきてくれた田上の報告に、静かに耳を傾ける。
 深夜に病院まで駆けつけてくれた田上は、空いている病室で仮眠を取るよう勧める皆の言葉を、ジェイの手術が終わって落ち着いた後も丁重に断り続けた。
 そのまま一睡もせずに朝を迎えた彼は、家族に連絡を取り、病院までスーツなどを持って来させて着替えた後、ジェイが携わっている関係先に、状況の説明に向かってくれた。
 深夜に起こった事件は、朝一の報道で伝えられてしまっているから、今までジェイのプライベートな部分を知らなかった皆にも、既に詳細が伝わっている。
 単純に「社の上層部の人間が怪我で入院した」では済まされない、微妙な問題を多く含む面倒な連絡事を、彼は嫌な顔一つせず当然の如く引き受け、黙々と思いつく限りの関係先へと出向き、状況説明に廻ってきてくれた。


「そうか……本心はともかく、意外と受け入れて貰えた様だな。クラブ経営に関して問題視する声は無かったのか?」
「完全に個人的な出資でやっている事です。今では経営的な面も含めて、店長と副店長が動かしている状態ですから。法的に不備はありませんし、表立って問題を問う理由は無いのでは。感情的な嫌悪感や体裁は言われましたけど、声高には主張出来ないんでしょう」
「同性愛者だという面が絡んでくるからな。強固な反対の声を上げる事が、逆に難しくなっているんだろう」
 もし、ジェイが異性愛者で風俗店を経営し、元々は街で身体を売っていた若い女と二人きりで、繁華街に程近いマンションで暮らしているとなると、道徳面を声高に問う声が容易に上がっても仕方ないと思う。
 只、それ以上に繊細な事柄である『同性愛者』という一面が、一気に明るみに出た様々な事実の中で、一番の衝撃として伝えられていた。




 真面目な報道などはともかく、普段は芸能人などを扱っている情報番組では、深夜の繁華街での傷害事件というよりも、その方が前面に押し出された報道が今朝から頻繁に流され続けている。
 手術室に一番近いソファを陣取り、泣き腫らした眸でジェイが戻ってくるのを待ち侘びている一稀を、訝しそうに眺めていたジェイのプライベートを知らなかった者達も、今朝からの報道を見て、ようやく事情がつかめたらしい。
 唐突に突きつけられた事実に戸惑い、何処となく対応に苦慮している雰囲気が伝わってくる、皆の様子を思い返していると、向かいのソファに座る田上が納得顔で頷いた。


「皆も驚きはした様ですけど、意外と納得しているみたいですね。あの容姿で立場的にも問題は無いのに、今まで浮いた話の一つもありませんでしたから。その理由が分かった……って感じなんでしょう。それは良しと思っていても、クラブ経営の件を否定すれば、同性愛者である事を問題視している様に受け取られるんじゃないか……と。そう裏を読んでしまって、あまり強く否定出来ない様です」
「だろうな。ある意味、一気に明らかにされた事で此方にも余裕が出来た。後は徐々に抑えていけば良いだろう。それより、田上。お前も少し休んだ方が良い。無理をするな」
 いくら彼が部下とは言え、こんな体勢で悪いな……とは思うけれど、まだ頭の芯がズキズキと痛んでいる。
 力無くソファに横たわったまま、田上の方に顔だけ向けて呼びかけると、彼は少し口元を緩めながら、頭を軽く横に振った。


「ありがとうございます。でも、先にボスの様子を見てからにします。一稀くんの状態も気になりますし、少しだけ彼と話をしてから……その後に仮眠を取ってきます」
「そうか。ジェイも微かに意識はある様だが、まだ会話が可能な程には目覚めていない。暫くは、ああいう状態が続くだろう。一稀は病室で付き添っている」
「分かりました。あの、私が言うのも何ですが……会長もベッドで休まれた方が。ソファでは疲れも取れませんから」
 ジェイが彼を気に入って、自身の専属秘書として引き抜くまで、田上は俺の元で仕事をしていた。
 あの頃から頻繁に体調を悪くしていた事もあって、彼は俺の体力の無さも熟知している。
 現在のボスである、体力もあって若いジェイと比べてみると、むしろ、普段の俺の方が病人に思えるのかもしれない。
 逆に気を使ってくれた田上に苦笑を返しながら、静かにドアを閉じる姿を、ソファに寝転んだまま見送った。




「田上の言う通りだ。少し眠った方が良いと思うぞ。昨夜からほとんど寝ていないだろう。お前の方こそ『無理をするな』じゃないのか?」
 隣にある一人掛けのソファから、そう話しかけてきた中川の方に視線を向けた。
 他の誰かがいる間は、それなりに仕事上の距離を保っているものの、こうして二人きりになってしまうと、昔からの友人関係に戻ってしまう。
 奇しくも似た関係になってしまった息子達も、最初は同じ様なやり取りをかわしていた記憶があるけど、いつの間にか、見慣れた雰囲気に戻ってしまった。
 彼等の場合、仕事的にも堅苦しくないし、田上が言っていた通りに、店の運営も中川の息子が主体になって動かしているから、それで良いと思っている。
 少しだけ羨ましく思う息子達に似た雰囲気でもある、学生の頃から変わらない口調で勧めてくれる中川の言葉に、思わず自嘲の笑みを浮かべた。


「大丈夫だ。仮眠は何回か取っているし、こうして横になるだけで随分と違う」
「今は気が張っているから、そう感じるだけだろう。夕方からの会見は、田上にやって貰うか?」
「……いや。彼もそんな余裕は無いし、そこまで負担をかける訳にもいかないだろう。ジェイの父でもある、俺がやるべきだ」
 ジェイが直ぐに復帰出来るとは思えないから、当分は彼に動いて貰うしかない。
 仕事上の付き合いを離れた個人的にも仲が良く、ジェイの店で一緒に飲んだり、一稀とも親しくしている田上だから、頼めば文句の一つも言わずに何でも引き受けてくれるに違いない。
 でも、それ以上に俺はジェイの父親だから、身体が辛いからと言ってこの場で一人、呑気に寝ている訳にはいかなかった。


「そうだな。いずれにしても、まだ時間は充分にある。俺は病室の方に顔を出してくるから、少し寝ておいた方が良い」
「病室か……一稀と一緒に付き添っている、麻紀にも休む様に伝えてくれ」
「分かった。そろそろティコがやってくる筈だ。少し前に『ティコだけ先に事情聴取が終わったから、病院に向かわせる』と電話があった。俺も色々と気になるし、話を聞いている間、麻紀には交代で休んでもらおう」
 ジェイが刺された現場に居合わせた中川の息子と恋人のティコは、今日も警察の事情聴取があった様だ。
 合間に何度も電話をかけてきて、ジェイや一稀の様子を気にしている二人は、終わり次第、病院にも顔を出すから……と、朝のうちから話をしていた。
 そんな息子達の様子も気になるし、俺を一人にしておいた方が眠りやすいと考えたんだろう。
 ジェイの病室へと向かう中川を見送った後、シンと急に静かになった部屋の中、ソファに横たわったまま目を閉じた。




 完全に私財のみで出店した売り専クラブを、中川の息子と一緒にやっているジェイは、ビジネスの方では田上に全幅の信頼を寄せている。
 彼の性格から考えると、もっと独裁的な経営者になりそうだけど、意外にジェイはそうじゃなく、素直に「他人を信頼する」という気持ちを持っている。
 もっとも、それは彼本来の気質ではなく、後天的な性質だと思っている。
 母親代わりに彼を育てた祖母の躾が良かったんだろうと、一度も顔を合わせた事の無いジェイの祖母に、父親として感謝していた。
 昨夜から街の皆に連絡を取って情報収集にあたり、此方に逐一報告をくれる三上や、一稀が親しくしている麻紀と言う、小柄だけどしっかりした性格の彼など、ジェイがプライベートを過ごす街の友人達とも、強固な信頼関係を築いているらしい。
 一稀の話に頻繁に出てくるから名前だけは知っていたものの、ほとんど初対面に近い彼等のジェイに対する献身さを目の当たりにして、内心、本当に驚いていた。


 ジェイが日本に来て10年以上が過ぎた今でも、彼は、母親が「父と一緒に日本に向かう様に」と言い出した理由を、怪我が治ればスラム街に戻ってしまうだろうから、そこから離そう考えたんだと思っている。
 実際、彼女もジェイに向かって、そういう意味の言葉をかけて促した様だけど、彼女の真意は違っていた。
 普通の親子と比べれば、家族として離れている時間の長かった二人だけど、母は誰よりも深く、まだ子供だったジェイの本質を理解していた。
 一緒に暮らしている年老いた祖母を慕って気遣う、優しい面もあるジェイだけど、その反面、両親の姿が無い事も幼い頃から冷静に受け止め、それを僻む素振りさえ一切無かった。
 自分が他者と違う立場にいる事を、ジェイは無意識に理解していたのかもしれない。
 生まれながらに強い精神力を持っている彼は、どんな世界においても、その頂点を担っていける力がある。
 そう思っていたからこそ、あんなちっぽけな街の片隅にあるスラム街に閉じ篭り、ギャングのボスに君臨して一生を終えるなんて勿体無い……と、重傷を負いつつも生き延びたジェイの姿を見詰めながら、彼女は一人考えていた。


 最初はジェイも馴染めずに戸惑わせてしまったけど、今では彼を引き取り日本に連れてきて正解だったと、心の底から感じている。
 母が望んでいた通り、大規模な仕事も順調に進んでいるし、プライベートでは気の合う友人達も大勢いる。
 何より、一稀という恋人が出来た事が一番大きいだろうなと、仲の良い二人の姿を眺めながら、いつもそう考えていた。






*****






 取り留めもなくジェイの事を考えているうちに、いつの間にか眠っていたらしい。
 廊下を過ぎていく誰かの話し声で目が覚めてしまって、暫く天井を眺めた後、横たわっていたソファに身を起こした。
 起き上がった視線の先に、音を消して点けっぱなしにしていたテレビが飛び込んでくる。
 映し出されている、普段は賑やかな所だと聞いているのに、今は人影すら見当たらないジェイと一稀が暮らす街を、寝起きでぼんやりしている頭のままジッと見詰めた。




「――――……どうした。寝てなかったのか?」
 ドアを開けた途端、起き上がっている俺を見つけた中川が、顔を顰めながら問いかけてきた。
「今、起きた所だ。それまで寝ていたから安心しろ」
「それなら良い。無理を重ねてお前まで倒れてしまっては、田上や他の皆が大変だからな」
「確かにそうだな。俺の方が迷惑をかけては、皆に申し訳なさ過ぎる……それで、一稀はどうしている?」
 ジェイの手術も終わって落ち着いてきた明け方頃、憔悴しきった表情を浮かべてベッド脇に置いた椅子に座り込み、無言で彼の手を握っていた一稀の姿が、どうしても頭から離れてくれない。
 少しは寝てくれたんだろうか……と思いながら問いかけると、中川が微かに表情を曇らせた。


「あぁ、ジェイに付きっ切りだな。彼の傍から離れようとしない。麻紀の話じゃ、時々ベッドに伏せてウトウトと眠っているそうだから、身体の方は何とか大丈夫だとは思うが……」
「一稀の場合、俺達が何か言っても無駄だろう。ジェイが目覚めるのを待つしかないが、食事だけは無理にでも取らせる必要がある」
「朝と昼は食べていないそうだ。ほんの少しでも良いから夕食は取るように、俺からも言い聞かせてみよう。ジェイは呼びかけに反応はするそうだが、まだ意識回復とまではいかないそうだ」
「今日は無理かもしれないな。背中の傷を負った時も、翌日はほとんど意識が無かった。呼びかけには反応していたから、多分、あの時と同じ状態なんだろう」
 ジェイが目を覚まさない事に関して、特に心配はしていない。
 命を落とす一歩手前まで血を流し、かなり体力を消耗してしまったから、少し多めに休んで回復を図っているんだろうと思っている。
 ジェイが一稀を此処に残して、身体の弱い俺より先に旅立ってしまうなんて、そんな事がある筈が無い。
 それだけは理由も無いのに、強く確信していた。




「あと少しで会見の時間だ。頭痛は治まってきたか?」
 そう問いかけてきた中川に、静かに頷き返した。
「かなり治まってきた。やっぱり、少し眠ったのが正解だったな。これで何とか、普通に受け答えも出来そうだ。警察の捜査も終わってないから、事件に関する質問は一切ノーコメントで通すつもりだ。そうなると、出てくるのはジェイのプライベートに関する質問ばかりだろうから、さほど長い時間はかからないだろう」
 こんなに大掛かりな会見になるとは思ってなかったけど、いつか絶対、こういう日が来るだろうと予想していたから、特に焦燥感は無い。
 ジェイが同性愛者である事は、もうずっと前から納得していた。


 そういうマイノリティーな部分も含めて、ジェイが自慢の息子である事は、今でも何ら変わりはない。
 選ばれし物だけが集う豪華なパーティ会場でも、腐臭の漂う薄汚れたスラム街でも、どんな場所でもジェイは臆する事無くすんなりと馴染み、自然な面持ちでその存在感を保ち続ける。
 眩いばかりの輝きと、その真逆にある暗闇の部分とを併せ持つ、稀有な存在であるジェイの姿に、血を分けた息子だという事を抜きにしても、本当に感嘆し純粋に心酔していた。
 ジェイが俺より数倍も出来る人間だと、もう充分に思い知っている。
 彼は東郷家の中でも突出した人物として名を残し、そして、その血を継ぐ者を作らぬまま、彼一代で歴史が完結していく事も、既に充分に理解していた。
 その事を残念に思う気持ちは正直あるけど、今はもう、それで良いんだと思っている。
 全てが彼自身で完結してしまうからこそ『ジェイという奴』なんだと、その生き方を認めていた。




 頑なに恋人を作ろうとしなかったジェイが、只一人、一稀だけを選んで傍に置き、ずっと二人だけで暮らしている。
 そんな姿を見ていたから、一稀を庇ってジェイが刺されたと聞いても、特に不思議だとは感じなかった。
 一稀が傷付く位なら、自分が命を落とした方がマシだ……――――
 ジェイは本気でそう考えているだろうと、父親だからこそ、その気持ちも理解出来た。


 楽しそうな彼等の姿に時折混ざって話しながら、打算の欠片も無い、純真な彼等の互いに対する愛情を、本当に眩しく思っている。
 ジェイと一稀が心行くまで人生を楽しみ、二人で仲良く添い遂げていければそれで良い。
 そう出来る様に、陰から手助けするのが俺の役目だと、ずっと前から胸の奥で決めていた。


 だからこそ、こんな時に体調を崩して寝込んでしまう訳にはいかない。
 目覚めたジェイに対して恥ずかしい思いをしないように、父親として問題を片付け、胸を張って見守っていこうと、今はそれだけを考えていた。
 ジェイと一稀が日常に戻った時、今までと何も変わらない環境を整えておいてあげたい。
 病室で静かに戦っている二人の姿を思いながら、その第一歩となる場所にへと、静かに足を向けて行った。






     Eros act-4 《The end》






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