Eros act-4 19

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 ゆっくりと動いてきた大きな扉に遮られて、ストレッチャーに横たわったまま運ばれていくジェイの姿が見えなくなった。
 もう、大丈夫。後は手術が無事に終わるまで、待ってるだけで良いんだ……って分かってるのに、涙は全然止まってくれそうになかった。


 あんなに辛そうに顔を歪めているジェイなんて、今までに一度も見た事がない。
 どうしたら良いのか全然分からなくて、何一つ思い浮かばないまま、とにかく彼の手を握り締めて、声をかけて励まし続けた。
 息苦しそうに荒くて短い呼吸を繰り返していたジェイから、返事が返ってくる事なんて、ほとんどなかった。
 でも、彼に俺の声が聞こえているのは分かっていたから、普段より冷たいジェイの掌を必死になって擦りながら、言葉をかけ続けていた。
 一緒に手術室に入っちゃいけない事は分かっているけど、それでも、彼と離れるのは嫌だと思う。
 ずっと無我夢中で話しかけていたジェイと離れ離れになった瞬間、頭の中が真っ白になってしまった。




 何でこんなに涙が出てきてしまうのか、自分でもよく分からない。
 閉ざされてしまった扉を見詰めたまま泣いていると、肩を支えてくれている三上が、少し身を屈めて顔を覗き込んできた。
「一稀、とりあえず座ろう。倒れて怪我でもしたら、俺がジェイに怒られるからな。あのソファなら、扉も直ぐに見える。距離も近いから寂しくないだろう?」
 そう促してくれる三上に向かって、泣きながら頷き返した。
 頭の中が色んな事で一杯になっているから、手術が終わるまで座って待っていようとか、そんな事も思いつかない。
 肩を抱いてくれる三上に促されながら、ふらつく足を動かして、ようやく何とか歩き出した。






 ソファに座ってみたものの、涙は全然止まってくれない。
 ジェイが運ばれていった手術室を見詰めたまま、何度もしゃくりあげていると、隣に座ってきた三上が背中を軽く擦ってくれた。
「そろそろ泣き止め、一稀。明日、目が腫れて変な顔になるぞ。ジェイが見たら本気で驚くだろうが」
「……そうだけど……でもジェイが……」
「大丈夫だ。此処で手術してくれる医師達は腕が良い。一稀も知ってるだろう。院長と一緒に出てきた医師は、俺の親父が怪我した時に診てくれた先生だな。もう年寄りだけど昔から腕は良い」
「…………ホントに……? 三上さんのお父さんも、ココに入院してた……?」
「まぁな。親父が映画の撮影中に怪我して、あの先生に治して貰った。親父は俳優だし、大きな傷跡が残るのは仕事的にもマズいからな。それに、この病院だとマスコミの奴等が侵入してくる可能性が少ない。安心して治療に専念出来る。一稀も入院してて居心地が良かっただろう? ジェイも同じだから心配するな」
 そう話し続ける三上が、ジェイの代わりに空いた手を握ってくれて、ポロポロと流れ続けている涙で濡れている頬を、ポケットから取り出したハンカチで優しく拭い始めた。


 まだ泣いているから上手く返事が出来ないけど、それは彼も充分に分かっている。
 黙って聞いている俺に答えを急かす事も無く、ゆっくりした口調で話しかけつつ、綺麗に整えられたハンカチで丁寧に涙を拭いてくれた。
 彼がハンカチにアイロンをかけたりすると思えないから、きっと慶がかけて三上に持たせているんだろう。
 あんまり大きくはないけど居心地の良い店の中、いつも仲良く一緒に過ごしている二人の様子が、ふと頭を過ぎっていった。


 ジェイはハンカチを持たない人だから、俺が泣いた時は指先で頬を拭ってキスしてくれる。
 こんな感じでハンカチで頬を拭いて貰うなんて、小さい頃に母さんがやってくれた時以来かも……と、何だかちょっと懐かしいような、不思議な気分になってきた。
 三上と知り合いになって随分と経つけど、彼が怒っている所を見た事がないし、ジェイとは少し違う落ち着きがあって安心出来る。
 慶が「すごく優しい人なんだよ」って、いつも皆に自慢したり、三上を好きになった理由がちょっとだけ分かった気がした。




「……でも……やっぱり、俺が刺されてたら良かったのに……ジェイが苦しそうなの、見たくない……」
 少し気分が落ち着いてきても、やっぱり、そればかりが頭の中に浮かんでくる。
 せっかく止まりかけていたのに、そう考えた瞬間、また目元に滲んできてしまった涙を、三上がハンカチで拭いてくれた。


「馬鹿、それじゃ意味が無い。ジェイだって、一稀に『怪我してないか?』って聞いてきただろう。一稀がジェイが苦しそうなのを見たくないのと同じで、ジェイも一稀に怪我させたくなかったんだと思うぞ」
「そうかもしれないけど……でも……」
「あまり気にするな。慶に、麻紀に電話をかけて病院に来る様に伝えてくれと頼んである。もう少ししたら来てくれる筈だ。俺よりも麻紀の方が話が合うだろうし、一稀と仲が良いからな。麻紀に色々と聞いて貰うと、少しは気分も楽になるだろう」
 身を乗り出してきて顔を覗き込み、丁寧に目元の涙を拭きつつ、そう話しかけてくれる三上に、コクリと頷いて返した。


 三上と話をするのも気分が落ち着いてくるけど、彼はジェイと仲良しだから、やっぱり、倒れていた時のジェイの姿とか、色んな事を思い出して辛くなってきてしまう。
 そういう意味で言えば、ジェイよりも俺と雰囲気が似てて仲の良い麻紀の方が、自分の気持ちを聞いて貰いやすいかもしれない。
 ずっと手を握ったまま、色んな事を話しかけて励ましてくれる三上と、途切れ途切れの会話を続けていると、入口に近い廊下の向こう側の方から、急ぎ足の足音と話し声が聞こえてきた。
 コッチに向かってきているから、ジェイの事を聞いた誰かが到着したんだと思う。
 話し声に気付いた三上と一緒に視線を向けた瞬間、現れた人影を見て、また喉の奥がヒクッとした。




「――――……お父さん、ジェイが……」
 もう就寝中だった所に連絡を受けて、急いで駆け付けたに違いない。
 パジャマに上着を羽織っただけのジェイの父を見詰めながら、胸がギュッと痛くなった。
「大丈夫だ、一稀。心配するな。お前は何処も怪我してないんだな?」
「俺は全然怪我してない……お父さん、ごめんなさい。俺が余所見してたから……ジェイが、俺の代わりになって……」
「ジェイなら直ぐに良くなってくれる。体力があるし身体も丈夫だからな。アイツもそう思って、一稀を庇ったんだろう。それに、もし一稀が気付いてたとしても、ナイフを持って襲ってくるヤツから逃げるのは困難だ。一稀が気にする事じゃない」
 身を屈めて強く抱き締めてくれた父が、背中を軽く叩きながら、そう優しく言ってくれた。


 俺のせいでジェイが刺されてしまったのに、父はそれを咎める事無く、逆に「怪我してないか?」と聞いてくれた。
 それに妙に安心してしまって、少しだけ気持ちが楽になってきた。
 でも、俺が気付いて少しでも自分自身で逃げていれば、ジェイが身代わりで刺される事は無かったと思う。
 やっぱりどう考えてみても、俺がキョロキョロしてたのが悪いんだ……って、本当に後悔し始めてきた。




 泣く事しか出来なかった混乱状態を過ぎてしまうと、そんな事ばかりが頭に浮かんできてしまう。
 三上と一緒に、少し離れた別のソファに座って話を始めた父に代わって、俺の隣に座ってくれた中川の父を相手に、当時の状況をポツリポツリと話していると、入口の方から田上が駆け寄ってくるのが見えた。
 何とか普段着に着替えているものの、右と左で靴下が違っているし、靴じゃなくてサンダルを突っ掛けている。
 普段ならそれを指摘して大笑いする所だけれど、今はとてもそんな気になれそうにない。
 むしろ、いつも冷静な田上が慌てる位に、大変な事態になっているんだな……って、本当に悲しくなってきた。


 携帯で何処に連絡を入れ終わった後、傍に来てくれた田上も、俺が怪我してなくて良かったと言ってくれた。
 でも、次々に駆け付けてくるジェイの仕事関係の人達を見詰めていると、また違う不安が募ってきた。
 ジェイの昼間の仕事について、俺は詳しい事は分からないけど、父と同じ仕事をやり始めてるから大変なんだ……と、ずっと前に田上から教えて貰った事がある。
 俺と一緒にいる時のジェイは、昔と全然変わらないから、普段は何も気にしてなかった。
 それは俺と過ごす時だけで、既に幾つかの会社で偉い人になってるジェイが刺されて怪我をした事態は、俺が入院した時とは比べ物にならない位の大問題なんだと、この状況になって、ようやく気付いた。






*****






 直ぐに手術が終わる筈がないのも分かっているけど、ずっと「手術中」のランプが点きっぱなしなのも気になってしょうがない。
 目前の壁に時計が掛かっているけど、最初のうちは頭の中が真っ白なまま泣いていたから、いつ、ジェイの手術が始まったのか見てなかった。
 どれくらい経ったのか分からないけど、皆の様子を見ていると、もう随分と時間が過ぎてる様な気がする。
 こういう手術にかかる時間って、どれ位なんだろう? と考えてみたけど、全然予想もつかなかった。


 泣き腫らした目で座っているから、皆もボソボソと小声で連絡を交わしながら、俺の事を気に留めているらしい。
 あちこち行ったり来たりを繰り返しつつ、交代で隣に座って、俺が一人きりにならないよう、話相手になってくれている。
 実際に現場から同行し、搬送時に院長とも少しだけ話をした三上は、皆に怪我の具合や状況を伝えなきゃいけないから、やってくる人達に説明をしてあげているらしい。
 今まで相手をしてくれていた田上に代わり、ようやく戻ってきて隣に座ってくれた三上から缶ジュースを受け取った瞬間、正面に人の気配を感じて視線を向けた。


「あ、麻紀……」
「悪いな、少し遅くなった。検問が始まってて、それに巻き込まれていた。まだ手術は続いてるのか?」
「うん、まだ続いてる……時間を見てなかったから、どれくらい経ってるか分からないんだけど」
 少しだけ息を弾ませ、肩にかけている大きなバッグを下ろしながら問いかけてきた麻紀に答えた。
 入口の所で手続を済ませてから、どうやら此処まで走ってきたらしい。
 俺を挟んで、三上と反対側の隣に座った麻紀の方に視線を向けると、向こう側にいる三上も、大きく身を乗り出してきた。


「検問か。大掛かりなヤツなのか?」
「あぁ、かなりだな。俺のマンションからだと、どう廻っても現場近くを横断しなきゃいけないから諦めたけど。此処に来るまでに3回引っ掛かった」
「そうか……東郷家の御曹司が刺されたんだから、普通の傷害事件とは扱いが違って当然か。街の方はどうだ?」
「既にマスコミが嗅ぎ付けているらしいな。病院前にも集まってきている。街の方は今の所、捜査中を名目に警察が追い払ってくれているそうだが、そう長くは続かないだろう。おでん屋台の親父が、地下にある空き店舗を集合場所として提供してくれる事になった。そこなら入口さえ固めておけば、マスコミが入ってくる事は不可能だ。組関係の奴等を手配してガードしてくれる。明日は通常営業しても無意味だろうし、皆もソコに集まると思う」
 ジェイが刺された直後からの騒動は、時間が経った今でも落ち着くどころか、ますます酷くなっているらしい。
 手短に街の様子を教えてくれる麻紀の話を聞きながら、三上が少し考え込んだ。


「分かった。ジェイの手術が終わったら、俺は一旦、ソッチに戻って話を聞いてくる。夕方には戻ってくるから、それまで一稀に付き添って欲しい」
「あぁ、俺の方は大丈夫だ。そのつもりで準備をしてきたからな。明日の午後、翔も此方に顔を出す事になっている。慶の都合もあるだろうから、三上はソッチを優先してくれ」
 しっかりと頷いた麻紀を見て、三上が徐に立ち上がった。




 今聞いた外の様子を、詰めている皆に教えるらしく、その方に向かう三上を見送った後、麻紀が穏やかに微笑みかけてくれた。
「少しは落ち着いた様だな。目元は随分と腫れてるけど」
「うん、沢山泣いたから……皆から色々励まして貰ったし、ちょっとだけ普通になってきた」
 とりあえず、缶ジュースを受け取って喉を潤そうと思える位には、何とか気持ちも落ち着いてきた。
 でも、ジェイはまだ手術中だから……と考えると、本当の意味で安心は出来そうになかった。
「いきなりは無理だろう。ジェイの処置が終わってから、ようやく……って感じだろうな」
「そうだと思う。だってジェイが庇ってくれて……俺のせいで怪我したから。先生が『もう大丈夫』って言うまでは、あんまり安心出来ないかも」
「気にするな。狙われたのは一稀だろうけど、最終的な目標はジェイだ。一稀が一方的に悪いんじゃない」
 返ってきた予想外の応えに、一瞬、次の言葉を飲み込んでしまった。
 皆にも伝えていた俺の気持ちを何気なく話したのに、皆とは全然違う事を話してきた麻紀の顔を、思わずジッと無言で見詰めた。


「麻紀……どういう意味?」
「以前、俺が一稀に対してやってしまった事と同じだ。本当の目的がジェイに関する事であっても、アイツは色んな意味で大き過ぎる。だから一稀を襲って、ジェイの動きを封じ込めようと考えてもおかしくはない」
「麻紀が俺に……って、タカ達に頼んだ時みたいに?」
「俺はそうだろうなと思っている。ジェイに直接手を下すには、色んな意味で危険が伴う。今の騒ぎを見ても分かるだろう。アレを予測出来るのならば、ジェイの一番身近にいて襲いやすい、一稀を狙うのは当然だ」
 淡々と答えてくれる麻紀の話を聞きつつ、本当に戸惑ってしまう。
 ジェイが刺されたって言うショックが大き過ぎて、あまり深く考えてなかったけど、改めて言われてみれば確かに、そうかもしれないと思えてきた。


 野次馬の中に紛れていた、少し様子のおかしかった男に見覚えがある気はするけど、少なくとも、俺が直ぐに思い出せるトラブルがある相手ではないと思う。
 ジェイと出会ってからは一度も売りに出た事はないし、最初の頃に言われていた陰口も、あれから何年も経った今では、すっかり影を潜めている。
 最近ではむしろ、俺は「ジェイの恋人」だと皆も完全に認めているし、それが当たり前になっていた。
 そう考えてみると、俺が誰かに襲われる理由も無いし、何より、心当たりは一つも無い。
 一方的に恨まれているのならともかく、俺が直ぐに思い浮かべる事が出来る相手なんて、誰一人として浮かんではこなかった。






「……俺を怪我させて、ジェイを困らせよう……とか、そんな感じなのかな……」
 いくら考えてみても思い浮かんでこない犯人像に、思わずそう呟いてしまった。
 ほとんど独り言に近い、俺の微かな呟きを聞いた麻紀が、軽く背中を撫でてくれた。
「他の皆や、警察がどう判断しているのかは分からない。でも、俺はそうだと思っている」
「自分で考えても、俺が襲われる理由が無いし。やっぱり、そうなのかもしれない……」
「答えはそのうち分かるだろう。東郷家の人間が刺されたからな、警察も威信をかけて探し出すに決まっている。でも、これは今回で終わりじゃない。ジェイの立場が変わる事はないし、むしろ、この先は巨大化していく一方だ。だから一稀も、色々と考えておいた方が良いだろうな。今回みたいに一稀自身が狙われる可能性も大きい。普段はジェイに甘えてても良いけど、こういう時に泣いてばかりじゃ困ると思う」
 口では厳しい事を言ってきた麻紀が、その言葉とは裏腹に、優しく背中を撫でてくれる。
 普段と全く変わった所の無い、落ち着いた雰囲気で話しかけてくれる麻紀に向かって、顔を上げて大きく頷いて見せた。




 他の皆とは全然違う、少し厳しいけどとても優しい麻紀の励ましの言葉に、ちょっとだけ気持ちが前向きになった気がする。
 いつまでも泣いてたらジェイも困るだろうし、心配かけない様にしっかりしなきゃ……って、そう考えられる様になってきた。


 普段はジェイに沢山甘えていたいけど、こういう時は麻紀みたいに強くならなければと、心の底からそう思う。
 今直ぐに強くなるのは無理だけど、とりあえず、今日はもう泣かない様にしようと胸の奥で誓いながら、現場を見ていない麻紀に向かって、あの時の状況を少しずつ、ポツリポツリと話していった。






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2010/06/28  yuuki yasuhara  All rights reserved.