Eros act-4 18

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 俺が苦痛に気を取られている間に、到着した救急隊員に搬送先の病院に関してを、中川が伝えておいてくれたらしい。
 受け入れ先を探す事無く、救急車に乗せられた途端、かなりのスピードで動き出した車内に横たわったまま、そんな事を考えている。




 俺が倒れた直後には駆け寄ってきて、即座に手当を施しつつ携帯で話していた中川の声も、叫んでいる一稀の声に混じって、しっかりと聞こえていた。
 途切れ途切れに聞こえてくる会話の内容から、実家暮らしの兄に連絡を取っているんだと分かった。
 話を聞いた中川の父と一緒に、俺の親父も深夜に叩き起こされた挙句に大急ぎで、病院に駆け付けて来るだろう。
 こんな深夜の就寝中を邪魔してしまって悪いな……と、身体があまり丈夫ではない父の姿を思い返した。


 一稀が怪我をした時も、中川が第一発見者で骨折の応急処置を施して、病院にへと運ぶ手筈を整えてくれた。
 中川はクラブJの店長になる寸前までアメリカの警察学校に通っていた事もあって、応急手当や非常事態時の混乱回避に長けている。
 取り乱している一稀とティコに向かって指示を出し、自分は手早く応急処置を続けた冷静な判断力は、彼だからこその行動だろう。
 そういう知識の無い一稀と二人だけの帰り道ではなく、中川が目前にいる時に襲われたのは、本当に不幸中の幸いだった。
 偶然ではあるけど、二度も俺達の面倒を見てくれた中川と同じく、彼の兄にも世話になっている。
 一稀が襲われた時には、車を出して病院まで運んでくれたし、今日は、もっと手間がかかるであろう、俺の怪我に関する連絡事項を引き受けてくれた。
 引き取られた東郷家に馴染めず、何かにつけて中川家に入り浸って遊んでいた頃から、色々と面倒をみてくれていた兄達の事は、自分の身内同然に思っている。
 きっと見舞いに来てくれるとは思うけど、それとは別に、傷が癒えたら一稀も連れて礼に行こう……と、纏まらない思考の中で考えた。


 自分でも、今考えるべき事でないのは分かっている。それでも、考えずにはいられない。
 こんな取り留めの無い事でも考えていないと、意識が朦朧としていて、このまま気を失ってしまいそうだった。






「――――……一稀……お前は大丈夫だったか? 怪我してないだろうな?」
 救急車で運ばれていく間も、ずっと手を握り続けている一稀の方に、微かに目を開けて視線を向けた。
 息をするのも苦しく感じる激痛を堪えるのに必死で、ずっと目を閉じ続けていた。
 病院に向かっている安心感の中、ようやく少々落ち着いてきた気持ちで、傷を負ってから初めて見詰める、泣き腫らした眸の一稀に、気になっていた事を問いかけた。
「どこも怪我してない。俺は平気……それより、ジェイの方が……」
「気にするな……これ位、大した怪我じゃねぇよ……処置さえ終われば、後は、治るまで待つだけだ……」
 もう少しだけ早く気付いていれば、一稀を突き飛ばすより先に、相手の男を取り押さえる事も可能だったかもしれない。
 でも、ギラリと一瞬、目の端に映った鈍い輝きに俺が気付いた時には、一稀を突き飛ばして、自分の身体を盾にするしか手段が無かった。




 手加減する余裕も無く、彼の肩口を思いっきり突き飛ばす。
 他所に気を取られている所を突かれたから、簡単によろめいた一稀は、そのまま隣にいたティコと一緒に地面にへと倒れ込んでしまった。
 身体の小さな一稀だから、その衝撃で怪我をしていないかと気になっていたけど、どうやら無事でいてくれたらしい。
 目を開けてしっかりと、その姿を確認する余裕も無いまま、荒い呼吸を繰り返していく。
 泣き声で叫んでいる一稀とは別の動く気配と、グスグスと涙ぐんでいる声が聞こえていたから、巻き添えになってしまったティコも、大きな怪我は無かったんだと思う。
 とりあえず、病院送りになるような被害が自分一人で済んだ事に、ホッと胸を撫で下ろした。


 振り下ろされるナイフの先に居る一稀の代わりに、自分の身体を盾に置いた瞬間、ガツンと鈍い衝撃を感じた。
 一瞬、驚いた表情を浮かべた相手の頬に、体勢を崩しつつも、何とか一発だけは拳を入れる。
 それが本当に精一杯で、更に反撃を加える事も出来そうにない。
 左季肋部を思いっきり殴りつけられた様な、激しい弾みに耐え切れず、突き飛ばした一稀の身体に、半ば折り重なって崩れ落ちた。
 庇った筈の一稀に圧し掛かるなんて、全く意味がないじゃないかと思うけど、もう身体が思い通りに動いてくれない。
 激痛に蹲りそうになる身を一稀が支えてくれて、何の術も無く、歩道に横たわるしかなかった。


 相手をしていた奴を追い払った中川が、即座に駆け付けてくれるまでの数秒の間だけでも、かなりの出血があった事は自覚している。
 なす術も無く脇腹を流れていく自分の血を、やけに熱く感じていた。
 ガキの頃に背中を切りつけられた時と同じく、出血多量によるショック症状が少しずつ現れつつあるんだろう。
 冷えた手を握り締めてくれる一稀の掌が温かくて、彼が触れている部分だけが、まるで別の身体みたいに心地好い。
 薄汚い路地裏に倒れたまま、一人きりで死にかけていた時とは、身体の症状は似ているけど、気分的に雲泥の差がある。
 一稀が無事で本当に良かった……と思いながら、手を擦りつつ励まし続けてくれる彼の声に、混濁する意識の中でずっと耳を傾けていた。






*****






 走る速度が緩やかになると同時に、鳴らし続けていたサイレンの音が消える。
 ようやく辿り着いた安心感で、ふと途切れそうになった意識を、やっとの思いで繋ぎ止めた。
 到着した病院では、既に看護師や医師達が待ち構えていた様だ。
 相変わらず目を開けて周囲を確認する気力も無いけど、慌ただしい周りの雰囲気だけは、目を閉じていても伝わってきた。


 救急車から降ろされ、ストレッチャーに乗せられたまま、院内の静かな廊下を、かなりのスピードで運ばれていく。
 ストレッチャーを取り囲んで、走りながら処置準備を始めた医療陣に混じって、一稀だけが同じ位置で、変わらず手を握り続けている。
 他の奴から見れば、普段の言動も相まって、一稀が俺に縋っている様に見えるかもしれない。
 でも実際はそれだけじゃなく、俺の方も同じ位、一稀の存在に依存していた。




 手術室前に到着したらしく動きを止めたストレッチャーと、一稀に手を離すよう促している看護師の声に、何とか眸を開けて彼の方に視線を向けた。
 一緒に手術室に入れない事くらい、彼も充分に理解している。
 分かっているものの感情的に抵抗があるのか、声を上げて泣きじゃくりながら頭を振って、子供みたいに駄々を捏ねて嫌がっている一稀の姿に、無意識に歯を食い縛っていた口元を緩めた。


「……一稀、我侭を言うな。皆も困るだろうが――――……三上……一稀を、頼む……」
「何言ってんだよ、ジェイ!! 変な事、言わないで!」
 三上が答えるより早く、一稀の抗議の声が飛び出してきた。
 こんな状態で告げた言葉を、変な風に受け止めてしまったらしい。
 泣き濡れた顔で怒っている一稀の姿を眺めたまま、また少し笑ってしまった。
「……ばか、そういう意味じゃねぇよ……手術の最中、頼んだ……って意味だ……」
「ホントに……? ジェイ、すぐ元気になってくれる……?」
「あぁ、当然だ……心配するな。皆の言う事を聞いて……良い子にして待ってろ」
 未だ握り締めた手を放そうとしない一稀に、出来る限り普通の口調を装って、そう伝える。


 ポロポロと涙を流しつつ、コクリと頷いてくれた一稀の顔を見詰めたまま、またゆっくりと動き出したストレッチャーごと、手術室の中にへと運ばれていく。
 名残惜しそうに離れてしまった一稀の手が、宙に浮いたまま彷徨っている。
 口を利くのもやっとの状態で離れてしまう事に、色んな意味で不安を感じているのかもしれない。
 捨てられた仔猫みたいな顔をして、ジッと此方を見詰めたまま呆然と立ち尽くしている一稀の肩に、三上がそっと手をかけた。
「ジェイ、頑張れよ。待ってるからな」
 運ばれていく俺に向かって、不安気な一稀を支えたまま、三上がそう声をかけてくれた。
 日々ご機嫌で気楽な三上らしくない励ましの言葉だけれど、今はふざけて返す余裕が無いし、俺自身、とてもそんな状態ではないと分かっている。
 いつになく真剣な眼差しで見送ってくれる彼の方に、先程まで一稀が握ってくれていた手を、少しだけ動かして応えてやった。


 「三上を呼べ」と一稀に指示を出した、中川の瞬時の判断力には、本当に驚くと同時に助かった気がする。
 非常事態になればなるほど冷静さが増していく性格の彼は、手術室の外に一人取り残されてしまう一稀の気持ちを、咄嗟に予想していたのかもしれない。
 もし、三上の付き添いが無く、一稀だけで待つ事になっていたら……
 今以上の混乱状態になり、廊下で一人、泣き喚いてるに違いなかった。
 普段は自分の好きな事ばかりやって呑気に暮らしている三上だけど、本当は何事にも動じない、頼り甲斐のある奴だと知っている。
 だから三上に一稀を預け、此処に残して行く事に、俺の方も安心していた。


 他の誰かがやってくる時まで、きっと三上が一稀の精神的な支えになってくれるだろう。
 今にも倒れそうな青白い顔で身動ぎさえしない一稀と、その肩に手を当て、身体を支えてやっている三上の姿が、静かに動いてきた大きな扉で遮られ、向こう側にへと消えていった。






 ガチャガチャと響いている準備の音と、慌ただしく飛び交う医師達の声を聞きつつ、ようやく気持ちが楽になってきた。
 一稀が目の前にいる間は、何が何でも意識を保っていなければ……と、そればかりを考えていた。
 こういう状態の時に意識を保つのが良いのか、それとも失神した方が良いのか。
 それは今でも分からない。
 ただ、命に係わる大怪我じゃないと分かっていても、目前で成す術も無いまま、気を失っていく姿を眺めている瞬間の喪失感を、俺自身が嫌って位に、あの時に思い知っていた。


 このままずっと目を覚ましてくれないんじゃないか――――そんな言い様の無い不安感に苛まれる。
 失神した一稀を腕の中に抱き締めていた時の俺と同じ気持ちを、一稀には味合わせたくない……
 それだけを考え、必死になって意識を保とうと、色んな事を考え続けていた。




「頑張るんだ、ジェイ。あと少しだからな」
 そう言葉をかけてくれた院長の声に、目を閉じたまま、無言で頷く。
 院長も返事を待ってはいないと思うし、もう、言葉を発する気力さえ残っていない。
 瞼がとても重く感じて、頭の中がぼんやりとしてくるのを止める事さえ出来なかった。


 ――――……何故、一稀が襲われたんだろう?
 混濁する意識の中で、一瞬それが脳裏を過ぎったけど、直ぐにそれは消えていった。
 その答えを考えるには、今の俺は少しだけ冷静さを欠いているし、既にそんな余裕も消え去ろうとしていた。


 いきなり襲いかかって来た奴等の、真の目的が一稀だったのは明白だけど、少なくとも、一稀に個人的な恨みを抱いている様には見えなかった。
 これが何年も前だったら、一人で売りをやっていた一稀との間にトラブルが……とも考えられるけれど、今更、そんな事を理由に襲ってくるとは思えない。
 急に頭に浮かんできた疑問に気を取られたまま、伸ばした腕にチクリと注射針が刺される微かな痛みと共に、急激に意識が途切れるのを感じていた。






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2010/06/20  yuuki yasuhara  All rights reserved.