Eros act-4 17

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 ふと気付いた時には、俺が耳元に当ててあげていた筈の携帯を、店長が自分で持っていた。
 彼に携帯を抜き取られたのも分からない位、今でも本当に頭が混乱している。
 ジェイへの応急処置を終え、様子を伺いながら携帯を手に話し続けている店長の隣で跪いたまま、道路に横たわっているジェイの顔を呆然と見詰めた。


 普段の余裕綽々なジェイからは想像も出来ない位、辛そうに顔を歪めているけど、手当をして少しは楽になったのか、最初に見た時よりは苦悶の表情が消えている気がする。
 「大丈夫?」とか、何か声をかけてあげたいけど、こういう場合、そうして良いのかどうか……判断に迷ってしまう。
 何をすれば良いのかも思いつかずに、只、ジェイの顔を無言で見詰め続けていると、話終わった携帯を無造作に放り出す一稀の姿が、目の端にチラリと写った。


 俺も混乱しててあまり聞いてなかったけど、俺以上にパニック状態の一稀の言葉でも、何とか三上に話が通じたらしい。
 一稀が空いた両手でジェイの掌を握り締めた瞬間、ジェイの手が微かに動いて弱々しく握り返した。




「ジェイ、ジェイ! 大丈夫!? しっかりして!」
 不安気に彼を見詰めていた一稀が、その動きに気付いて、彼の名を呼びつつ腰を浮かせる。
 両手でジェイの手を握ったまま、慌てて顔を覗き込んだ一稀に向かって、目を閉じたままのジェイが、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「――――……入りが肋骨に当たった……深い傷じゃない筈だ……」
「ジェイの馬鹿! お腹を刺されるとか、浅くてもダメだろ!? もうすぐ救急車が来るから……そしたら、……病院に行って……」
 大声でジェイに向かって怒っていた一稀の声が、徐々に小さくなっていく。
 最後辺りは言葉にならず、彼の掌を握り締めたまま、ポロポロと涙を流して子供みたいに泣きじゃくり始めた一稀の前で、話を終えた店長が携帯を仕舞ってジェイの顔を覗き込んだ。


「肋骨に当たって表層を滑った様だな。深い傷じゃないが、その分、範囲が広くて出血が激しい。あまり話さない方が良い」
「……あぁ、そうだな……悪いが、後を頼む……」
 普段の彼からは想像もつかない位に、消え入りそうな弱々しい声だけど、口調はジェイらしくハッキリとしている。
 それっきりジェイは黙り込んでしまったけど、彼の声を聞いて少しは安心したのか、一稀も叫ぶのを止めて大人しくなってくれた。




 出血がかなりあるし、貧血を起こして手が冷たくなっているのかもしれない。
 相変わらず泣きじゃくりながらも、ジェイの掌をしっかりと両手で握り締め何度も擦って暖めつつ、苦しそうなジェイを励ましている一稀を前に座り込んでいると、急に肩を叩かれた。


「――――あ、拓実……」
「救急車が到着するまでに……って、すっげぇ走った。何とか間に合ったな……逃げた連中は捕まったのか?」
「分からないけど……まだだと思う」
「そっか。病院には三上さんが付き添う。俺はコッチに残って手伝うからさ。皆に状況を聞いてくるな。ティコは此処で待ってろ」
 閉店近くまで店で遊んでいた拓実達が、そういえば「今日は別荘に泊まる事にして、慶さんトコでもう少し飲んでくる」と話していたのを、顔を見て思い出した。
 その言葉通り、遊びに行っていた慶の所で、一緒に飲んでいた三上の携帯に一稀からの連絡が入り、そのまま駆けつけてくれたんだろう。
 遊んでいた慶の店から走ってきたらしく、座り込んでいる俺の隣で中腰になって、息を切らしながら話しかけてきた拓実を見上げた。


 ジェイから視線を外してみると、先程まで以上に、周りが大騒ぎになっているのに気が付いた。
 元から見物していた人が結構いたけど、それよりも随分多くなってきているから、多分、拓実と同じ様に話を聞きつけた街の皆が、手伝いに来てくれたのかもしれない。
 慌ただしい周囲を伺いつつ、そう話しかけてきた拓実が、誰の物か分からない折り畳まれたスーツの上着を枕に、ぐったりと歩道に横たわっているジェイの方にチラリと視線を向けた。
 全然気付かなかったけど、ジェイを挟んだ反対側にいる一稀の隣に、拓実と一緒に駆け付けてくれた三上が、いつの間にか身を屈めていた。
 何やら小声で話しかけている三上に、ジェイが無言で頷いたり、微かに首を振って応えている。
 暫くの間、その様子を眺めつつ息を整えていた拓実が、また立ち上ったのと同時に、ようやく、微かに救急車やパトカーのサイレンが聞こえてきた。






*****






 こういう場合は急に動かしちゃダメだと、頭では分かっている。
 でも実際に現場で居合わせ、辛そうな姿を目にしていると、一刻も早く病院に連れて行ってくれれば良いのに……と、焦れったくてしょうがない。
 到着までの時間もそんなにかかってない筈だけど、何もかもがやたらと長く感じてしまう。
 最初に応急処置を施した店長からの説明を受けつつ、救急隊の人達がジェイを慎重に担ぎ上げて、ようやく救急車にへと運ばれ始めた。


 ジェイに寄り添って歩き出した一稀の方に、彼が放り出していた携帯を拾い上げた拓実が、慌てて駆け寄っていく。
 とにかく今は、ジェイの事で頭の中が一杯だろうし、あまり周囲の様子も目に入ってなかったのかもしれない。
 ジーンズの後ポケットに携帯を突っ込まれたのに気付いた一稀が、ちょっと驚いた様子で、後ろに付けた拓実の方に視線を向けた。
「――――拓実、……ジェイが……」
「大丈夫、心配すんな。病院に着いたら手術して貰えるし、店長が手当したんだろ? 直ぐに良くなるから」
 何の根拠も無い励ましだけど、拓実を兄同然に慕っている一稀にとっては、その一言を心強く感じたらしい。
 運ばれていくジェイの手を握ったままの一稀が、泣き腫らした眸でコクリと無言で頷いた。


 出来れば一稀に付き添ってあげたいし、それが無理なら何か言葉をかけてあげて……と思うのに、身体も頭も動いてくれない。
 ストレッチャーに横たわったジェイと一緒に、三上と一稀が救急車に乗り込んで行くのを、心配そうな皆と一緒に静かに見守るしかなかった。






 大きな音を鳴らして走り去っていく救急車が見えなくなるまで、無言でその方を見詰め続ける。
 連絡を受けた兄が手配してくれてるから、ジェイが病院に到着次第、直ぐに処置して貰えるだろう。
 そう考えると、ようやく少しだけ安心した気はするけど、それでも、道路に横たわったジェイの姿と一稀の悲痛な叫び声が、どうしても頭から離れてくれなかった。


「……店長、ジェイは大丈夫かな……」
 答えが無いのは分かっているけど、どうしても聞かずにはいられない。
 落ち着かない気分のまま、ジェイの血が沢山ついてしまった手を、誰かが持ってきてくれたおしぼりで拭っている店長に問いかけると、彼もゆっくりと首を振った。
「分からない……傷は浅いし内臓にも全く影響は無い。只、出血が多過ぎる。刺されたと言うより、切られたって感じだ。直後から止血を始めているし、大丈夫だとは思うが……」
 いつもは何を聞いても力強い答えを返してくれる店長だけど、今回だけは、ハッキリと言い切ってくれない。
 運ばれていく最中のジェイの顔を思い返していると、店長が血を拭き終わった手で、優しく髪を撫でてくれた。
「心配するな、ティコ。到着したら直ぐに手術して貰える。アイツは元々の体力もあるし、直ぐに傷も塞がって元気になるだろう」
 普段のジェイは風邪一つひかない位に健康な人だから、きっと人一倍頑丈なタイプなんだと思う。
 本当にそうなって欲しいと心の底から願いながら、聞き慣れた穏やかな口調で話してくれる店長に向かって、無言で頷いた。




 気分が落ち着いてくるまでもっと色んな話をしたかったけど、当事者でもある店長は、警官に呼ばれてしまった。
 話を聞きに来た警官を連れて、最初に襲われた地点に向かう彼の後姿を眺めていると、久しぶりの声に名前を呼ばれた。
「翔……来てくれたんだ」
「慶さんから、麻紀に連絡が入ったんだ。麻紀は直接、病院に向かった。俺はコッチを手伝う様に言われたからさ。電話しながら来たから、搬送には間に合わなかったか」


 怪我をしたジェイを乗せた救急車が走り去った後、今度はパトカーと警官でごった返している周囲を眺めつつ、翔が歩み寄ってきた。
 あの最中を眺めていた皆に話を聞きに行っていた拓実も、翔が来ているのに気付くと、またコッチに戻ってきてくれた。
 拓実は事件後に駆け付けてくれたから、今の所、事情聴取の対象になっていない。
 先程までとは違ってきた喧騒を避け、三人でとりあえず端の方に移動していると、携帯を触っていた翔が、ちょっと悔しそうにパタンと閉じた。


「ダメだな。俺の後に入ったヤツの番号、ほとんど聞いてねぇや……ティコ、明日ってさ、とりあえず店は閉めるだろ?」
「あ、そうだな……店長と相談してないけど、ジェイの容態が落ち着くまで、そうするしかないと思う。多分、俺達は事情聴取もあるだろうし……」
「ウチも落ち着くまでは閉める。コッチは祐弥が連絡係だから、来る途中に電話してきた。ああいう捜査だけなら良いけど、マスコミの奴等も突撃してくるだろ? 麻紀が『誰かにジェイの事を聞かれても何も答えるな』って、全員に通達しとけってさ」
「あぁ、確かに……ジェイの実家は凄いトコらしいし、かなり大騒ぎになるだろうな」
 詳しい事情は知らないけど、店長や一稀からジェイの実家は驚く位に裕福な所だと、話だけは聞かされている。
 もっとも、俺には直接関係の無い話だし、ジェイ本人もそれを気にしている様子もないから、普段は極普通に接していた。
 日常はそれで済むけど、ジェイが刺されて怪我をしてしまった今回は、そう簡単に終わりそうもない。
 傷を負ったのがジェイだから、こんなに大騒ぎになっているのかな……と、思わず警官だらけの周囲を見回した。


「俺と翔が知ってる奴には、俺達が直接、電話して話した方が早いよな。それから、颯太には連絡しておいた。別荘にいる奴等と一緒に、コッチに来てくれるってさ。他の奴等には颯太から連絡を廻して貰おう」
「ありがとう、拓実。ゴメン、俺、頭が全然廻らなくて……何をすれば良いのか、全然思いつかない」
 何かを言われて思い当たって、それについて考えている間に、拓実や翔が、俺がやるべき事を先回りして次々に片付けてくれている。
 それをぼんやりと眺める事しか出来ない自分を不甲斐なく思いつつ、拓実に礼を告げると、彼が勤めていた頃と変わらない、頼もしい笑顔で微笑んでくれた。


「ティコも現場にいた当事者だろ。混乱してて当然だって。それで、ティコは見てたのかよ?」
「刺された瞬間は見てないんだ……一稀が『ちょっとだけ妙な雰囲気の奴がいる』とか言い出して、俺はソッチを向いていたんだ。そしたら、一稀が突然ぶつかってきて、二人で道路に倒れて……」
「そっか……それじゃ、ジェイが一稀を突き飛ばしたんだろうな。やっぱり、一稀を庇ったのかもしれないな」
 ボソリと小声で呟いた拓実の言葉に、俯いていた顔を上げた。
「――――え、何それ。一稀が狙われてたって事?」
「分かんね。一稀が電話してきた時、三上さんに『ジェイは俺を庇って刺された』とか言ってたらしい。だから野次馬してた連中にも聞いたんだけど、目撃者がいないんだよな」
「そうなんだ……でも、言われてみればそうかもしれない。一稀が自分で倒れてきた感じじゃなかった」
「後はジェイに聞くしかないか。追いかけて行った皆も、今、事情聴取に協力しているけど、犯人には追いつけなかったみたいだな。こんな時間帯だし、皆も酔っ払っているから無理だろ」
 閉店時間を過ぎた店も多い深夜の繁華街で、逃げていく連中を長時間追いかけて捕まえる程、体力の残っている奴がいるとは思えない。
 元から期待していなかったのか、さらりと言い切った拓実の隣で、翔も腕を組んだまま頷いた。


「そうだな。逆に言えば、逃げた奴等はシラフだった……って事だよな。ジェイと一稀、ドッチを狙ってたかは分からないけど、少なくとも、酔っ払いが適当に絡んできたんじゃないだろう」
「俺もそう思う。皆もそう証言してるみたいだしさ。素手で喧嘩してたのに、ジェイが刺される瞬間だけ、突然、ナイフが出てきたそうだぜ。やっぱ、狙ってたんだろうな」
 拓実の話を聞いた瞬間、ゾクリと背筋が粟立った。
 襲ってきた男達に感じていた違和感の一つに、その事もあったのかもしれない。
 何人もで物陰に潜み、俺達が戻ってくるのを無言で待ち構えていた彼等は、最初から殴りつけるのが目的じゃなく、隙を見て襲い掛かろうと、虎視眈々と狙っていた。




「――――ティコ……ティコ!」
 遠くから聞こえてきた呼び声に、ふと我に返った。
 はぁはぁと全力疾走で駆け寄ってくる颯太達の姿を見た瞬間、何故だかまた、泣きそうになってしまった。
「ティコ、大丈夫? ティコは怪我してないんだよな?」
「俺は平気……道路に倒れた時、ちょっと擦り傷した位で……」
「そっか……ジェイの話は聞いたけど、俺も慌ててたし、他の皆がどうだか聞くのを忘れてたからさ。皆で怪我してたらどうしようって、それがすっげぇ心配でさ……」
 別荘で遊んでいた皆で、取り急ぎ駆け付けてくれたらしい。
 いつも一緒に働いている皆の顔を見た瞬間、ホッと安心してしまって、今頃になって頭がフラッとして、気持ち悪くなってきた。


「ティコ、ちょっと座って休んどいた方が良いよ。顔色も悪いし、無理しないで。皆への連絡は、俺達でやっとくから」
 少しだけよろめいてしまったのに、颯太がいち早く気付いてくれた。
 心配そうに顔を覗き込み、肩を支えてくれる颯太に促されて隅に寄って、歩道の脇に座り込んだ。
「……ごめん、颯太……気分が良くなってきたら手伝うから……俺、副店長なのに、頼りなくて……」
「そんな事ないよ。ティコは一緒に襲われたんだから、落ち着かなくて当然。連絡を廻すのは俺達でも出来るし、何も心配しなくて良いよ」
 優しく言葉をかけてくれる颯太に、無言で頷き返した。
 ジェイが怪我する現場を見てしまった一稀と比べたら、俺のショックなんか全然軽い筈だから……
 そう自分に言い聞かせようとするのに、張り詰めていた糸が切れてしまった今となっては、放心状態で座り込む事しか出来そうになかった。






 てきぱきと言葉をかけ合い、次々と連絡を廻している皆の姿を、歩道の隅に座り込んだまま、只、ぼんやりと眺めている。
 苦しんでいるジェイを目前で見詰めていた瞬間よりも、彼等が病院に向かって姿が見えなくなった今の方が、本当に夢の中の出来事みたいで、何もかもの実感が、どうしても沸いてこなかった。


「――――……ティコ、大丈夫か? 気分が悪くなったのか?」
 大体の聴取も終わったらしく、店長が戻ってきた。
 電話をかけている皆を前に、一人でジッと座り込んでいる俺を見て、心配そうに問いかけてくる姿を見上げながら、ゆっくりと頷いた。
「少しだけ……でも、もう大丈夫」
「あぁ、無理しなくていい。少し座っていた方が良いだろう。ところで、ティコは現場を見てたか?」
「見てない……拓実にも話したけど、一稀が変な奴がいるとか言い出して、そっちを見てた。そしたら、一稀がぶつかって来たんだ」
「そうか。俺も見ていなかった。野次馬の連中も、その瞬間を目撃していた奴はいないそうだ。只、俺が見ていた限りでは、ジェイはあの位置にいなかった筈だ。刺される寸前にジェイを見た奴も『ジェイは全然違う場所にいた』と話している。一稀が狙われているのに気付いて突き飛ばし、自分を盾に一稀を庇ったのかもしれない」
 やっぱり警察の聴取でも、その事が問題になっているらしい。
 現段階で判明している詳細を教えてくれた店長に、徐に頷き返した。


「そうだよな……俺も、そうとしか考えられない。一稀が一人で転んできた感じじゃなかったから……」
「警官が少し話を聞きたがっている。大丈夫か?」
「少しだけなら……まだちょっと気持ち悪いし、長い時間は無理かもだけど」
「それで良い。無理をしない程度にしてくれと頼んでおく。ティコは眺めていただけだし、そんなに答える事も無いだろう。呼んで来るから、此処で待ってろ」
 しゃがみ込んで話をしていた店長が、軽く頭を撫でてきて、頬にそっとキスしてくれた。
 たったそれだけで、随分と気持ちが軽くなるのを感じながら、また立ち上がった彼を見上げて、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 奴等に狙われていたのは、ジェイなのか、それとも一稀なのか……それで随分と色んな事が違ってくる。
 問われるまで考えてもいなかった事柄に戸惑いつつ、ようやく少しだけ冷静さを取り戻しつつある頭の中で、その瞬間の事を思い出そうと、必死になって考えていた。






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2010/06/14  yuuki yasuhara  All rights reserved.