Eros act-4 15

Text size 




「そういや、お前等って時間は大丈夫なのか? 電車で来たんなら、もう終電過ぎてるんじゃねぇのか」
 ふと思い出したらしく、壁掛け時計を眺めつつ問いかけた三上に向かって、彼の隣に座っている拓実が、またグラスを軽く煽った。


「今日は大丈夫。明日は休みだから、二人共、一晩中遊ぶ予定で来たからさ。とりあえず念の為に別荘に泊まるかもって、店長に許可を貰ってきた。遊び疲れたらソッチもあるから問題無しだな」
「あぁ、それなら安心だな。別荘の鍵はあるのか?」
「一応借りたし、誰かは絶対に泊まってるから平気だろ。颯太も今日は泊まってく予定とか言ってたしさ。アイツにも『もしかしたら、遊びに行くかもしれない』と言ってきた」
「あぁ、そうなのか。颯太がいるのなら入り易いな。そういや、アイツも頑張ってるなぁ。ティコがすっげぇ助かってるとか言っていたな」
「だよな。どういう意味なのか聞いてもよく分からねぇけど、颯太はティコが目標らしいぜ。まぁ、今でも店には遊びに行ってるから、颯太やティコ経由で、俺達と入れ違いのヤツでも普通に話してるしさ。手土産がてらに、ちょっと夜食でも持っていけば良いかなーってさ」
 今夜中に街を出て、一緒に暮らしている家に帰るつもりは、どうやら二人共、最初から更々無かったらしい。
 カウンターに肘を付き、ゆったりとグラスを煽っている三上と、それに合わせてのんびりとリラックスしている拓実と橋本の姿を眺めながら、思わずクスリと笑ってしまった。




 二人が売り専ボーイを引退してから、もう随分と時間が経ったけど、今でもこうして月に何度かは、仕事が休みの前日の夜に連れ立って遊びに来てくれる。
 ジェイの所に入店するまで、この街には遊びに来た事すらなかった二人だけど、今ではすっかり気に入ってくれたみたいで、普通に飲むだけの目的でも、ちょこちょこと顔を出してくれている。
 拓実は元からゲイだから、やっぱり雰囲気的にも居心地が良いだろうし、橋本にしても色んな意味で思い出が沢山ある界隈だから、彼の中でも特別な場所になっているそうだ。
 僕自身も気に入っている街だし、こうして立場が変わっても忘れずに遊びに来てくれるって事を、本当に嬉しく感じる。
 ボーイで働いていた頃と変わりなく、今日も元気で楽しそうな二人の姿を、閉店作業を進めつつ横目で眺めていると、拓実が思い出した様子で急に視線を向けてきた。


「あ……慶さん、遅くまで居座ってごめんな。凝った食事は頼まないし、そういうのも全部片付けて良いから。もう俺達しかいないしさ」
 店内をキョロキョロと確認しつつ、申し訳なさそうに呟いた拓実に向かって、テーブル席を整えつつ笑い返した。
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて。早く片付けたいって言うか、ある程度終わらせといて、僕も一緒に飲もうかな? って感じかな。仲間に入っても良い?」
「当然。人手が足りないなら手伝うけど。ちょっと大変だろ」
「平気だよ。いつもと同じだからね。この人数で片付けするのは慣れてるんだ。そのまま飲んでて良いよ」
 問いかけてきた拓実の隣で、早々に腰を浮かせる素振りを見せた橋本を慌てて制し、最後に一言付け加えた。
 その気持ちは本当に嬉しいけど、閉店に廻るのはいつも二人と決めていて、僕も含めてお店の子達と交代で早く上がる様にしている。
 毎日の事だから慣れているし、そもそも彼等はお客さんなんだから、手伝って貰う気は全然持っていない。
 渋々と腰を下ろした橋本に新しいお酒を出してあげて、今度は洗い終わってある食器の片付けに取り掛かった。


 ジェイの店も含めて、この辺りは風俗サービスも兼ねているクラブやバーが多いから、建前上は深夜0時が閉店の所がほとんどになっている。
 表向き閉めてるだけで実は営業中な所もあるけど、利用出来るのは常連客のみだったり、麻紀の所みたいに、深夜以降は宿泊料金になるお店も少なくない。
 駅までの帰りに「ちょっと一杯だけ飲んでいこう」みたいな感じで、そういうお店から流れてくる客も案外多いし、働いている従業員の子達も仕事帰りに飲みにくるから、最低でも午前1時位までは店を開ける事にしている。
 深夜近くまではジェイの店で飲んでいた拓実と橋本も「向こうが閉店近くなってきたから、次はコッチに移動してきた」と、来た時にも話していた。
 食事も美味しいジェイの店で散々飲み食いしてきたそうで、コッチに来てからは簡単なおつまみだけで、あとはのんびりと飲む事に決めたらしい。
 この時間帯になってくると、来店する人は皆、拓実達と同じく食事などを済ませている場合がほとんどだ。
 だから、合間を見て先にそういう物から片付けるのも、日々の慣れた手順になっている。
 それを終わらせてしまってから、こうして残ってくれているお客さん達と一緒に、ゆったりと話をしながらお酒を飲むのも、日々のささやかな楽しみの一つになっていた。


 拓実達も、まだ暫くは此処で遊んで行ってくれる様だし、表の看板はクローズにしてきたから、新しいお客さんが来る可能性は低いと思う。
 久しぶりに沢山話が出来そうだなと嬉しく思いながら、ラストまで一人残ってくれている従業員の莉緒に視線を向けた。
 これから先の時間は、ほとんどプライベートで飲んでるも同然だから、閉店業務が終わってしまえば、このまま終わりにしても構わないし、逆に残って一緒に遊んでいくのも良い。
 今日はどうするのかな? と思いつつ、乾き物のおつまみだけを少量だけ残して、洗い物をしている彼に視線を向けた瞬間、三上の携帯が着信音を鳴らし始めた。




「あれ、一稀だ。こんな時間に珍しいな。今日はジェイが不在だったか?」
 携帯のディスプレイを見詰めつつ、不思議そうに呟いた三上の言葉に、隣に座る拓実も首を傾げた。
「いや、店にいたぜ……ってか、此処に来る寸前まで一緒に飲んでたしさ」
「そうなのか? じゃあ、お前等が来てるかどうかの確認かな。いるんなら寄って帰ろうか……みたいなさ。でも、それなら直接来そうだけどなぁ」
 ジェイが遅くまで不在の時、寂しがり屋の一稀が話相手を探して電話をかけてくる事はあるけど、ジェイがいる時にとなると滅多に無い。
 三上が考えた通り、彼等も閉店業務が終わって、マンションに戻る前に遊んでいくつもりなのかもしれないけど、やっぱり少し違和感を持ってしまう。
 皆が少々不可解に思う中、三上が携帯の通話ボタンを押した。




「どうした、一稀。拓実達なら…………おい、落ち着け!! 一稀! 今、何処にいる?」
 急に声色が変わった三上の様子に、洗い物をしている莉緒の方に向かっていた足を止めた。
 何を話してるのかまでは聞き取れないものの、一稀の尋常じゃない叫び声が、電話越しに此方まで微かに響いてくる。
 皆の様子が何となくおかしい事に気付いた莉緒が、不思議そうな顔で水道を止めて、手を拭きながらカウンターの方にやってきた。
 同じく怪訝そうな表情を浮かべた拓実達と顔を見合わせ、皆で三上の方を見詰めた瞬間、唐突に三上が立ち上がった。


「分かった。とりあえず俺の質問に答えろ。ジェイと一緒にいるのは、一稀だけなのか? 中川は…………そうか。周りはどうだ?」
 電話の向こう側の一稀に問いかけつつ、スタスタと入口の方に向かった三上がドアを少し開けて、顔だけ出して外の様子を伺い始めた。
 店の外に顔を出しているから、話している詳しい内容までは聞こえてこない。
 それでも、ジェイと一稀の身に何か大変な事態が起こっている事だけは、充分に伝わってきた。


「……何かあったみたいだな。慶さんにも一稀の声、聞こえてた?」
 顔を顰めて問いかけてきた拓実に、徐に頷いた。
「うん、聞こえてきた。ほとんど叫び声に近かったよね……」
「あの声は普通じゃねぇぜ。一稀が電話してきたって事は、ジェイに何かあったのかも。様子を見に行った方が良さそうだ。三上さんも行くだろうから、ちょっと俺も一緒に見てくるぜ。裕真は此処で待ってろよ」
 そう呟いた拓実が橋本に声をかけつつ、ゴソゴソと軽く身支度を整え始めた。
 電話を受けた三上は、相変わらず一稀と話を続けながら外の様子を伺っていて、まだ戻ってきそうな気配はない。
 一稀の声は聞こえないけど、時折、落ち着くように……と宥めている三上の言葉は聞こえてくるから、一稀はまだ、先程の混乱した状態が続いているんだと思う。
 ジェイと二人で帰宅途中、この近くで何かの揉め事にでも巻き込まれたのか……? と考えていると、電話を切った三上が店内にへと戻ってきた。




 向かってくる険しい表情を見ただけでも、徒ならぬ事態が起こっていると分かってしまう。
 初めて目にする彼の雰囲気に戸惑いながら、足早にカウンターまで戻ってきた三上に、恐る恐る小声で問いかけた。
「……ねぇ、博人。何かあったの?」
「ジェイが刺された。中川も一緒にいて、刺された直後から手当てをしているが、かなりヤバい状態らしい。一稀は一部始終を見ていたそうだ。パニック状態で全く話が通じない。ジェイの容態も気になるが、一稀の方もまずいだろう」
 普段の彼とは全然違う、怖い位に真剣な口調で返ってきた答えに、一瞬、言葉を失った。
 上着を手に取り、現場に向かう準備をしている彼の前で、絶句して立ち尽くしているだけの僕の代わりに、拓実が舌を鳴らしながら席を立った。


「マジかよ……俺も一緒に行くぜ。マンションに帰る途中で?」
「そうらしいな。前から歩いてきた男達が、突然、襲い掛かってきたそうだ。俺は一稀と一緒に、ジェイに付き添って病院に同行する。拓実は現場に残って中川の手伝いをしてやってくれ……ティコも現場にいる。四人で帰宅中に襲われた」
 いつになく早口での説明を聞きながら、準備の手を止めた拓実が深々と溜息を吐いた。
「――――最悪だな。ティコは暴力沙汰が真剣にダメだから。アイツも放心状態なんじゃねぇか。ティコも瞬間を見てたのかな?」
「分からない。一稀も混乱しているから、断片的にか聞き取れなかった。順を追っての説明が出来ていない。俺も状況がハッキリと掴めてねぇな」
「直接見に行った方が早そうだ。この時間なら、まだ人通りも途絶えていない。目撃者は多いだろ」
「そうしてくれると助かる。俺はとにかく、一稀とジェイだ。一稀があの状態じゃ、一人で病院まで付き添わせるのは無理だろう」


 拓実と打ち合わせを続けながら、三上が準備を整え終わった。
 最後に携帯を上着のポケットに放り込むと、それを呆然と見守っていただけの僕を抱き寄せ、軽くキスを落としてくれた。
「心配するな、慶。大丈夫だ……俺と拓実が出て行ったら、直ぐに鍵を閉めろ。ジェイを刺した奴等は逃亡して、まだ見つかっていない様だ。明日は店も休みにしておけ。外の様子じゃ、既にかなり大騒ぎになっている。いずれにしても明日の営業は無理だ。分かったな?」
「分かった……皆にも連絡を廻さなきゃ」
「そうだな。明日はこの近辺に来ない方が良いだろう。それから、車を呼んで皆でマンションに戻ってろ。歩きはダメだ。莉緒も特に用事が無ければ、慶の所に泊まった方が良い――――実際に狙われたのは、ジェイではなく、一稀だったらしいからな」
 突然聞こえてきた思いがけない話に、抱き締められた腕の中、弾かれた様に顔を上げた。


「本当に……!? 一稀が狙われた……って……」
「あぁ。実際はどうだか分からないが、一稀の説明だと『ジェイは俺を庇って刺された』って事だ。本当にそうなのか、一稀が思い込んでいるのかは分からないがな。ジェイが狙われたのならともかく、一稀が目的となると、犯人や理由が全く予想が付かない。通り魔の可能性もあるし、念の為、用心しておいた方が良い」
 予想外の話が連続していて、無意識に身体が強張ってしまう。
 軽く背中を撫でてくれながら、そう話していた彼が、今度は橋本の方に視線を向けた。


「裕真。巻き込んでしまって悪いが、俺が戻って来るまでコッチを頼む。慶と莉緒だけで帰すのは、この状況だし少々不安が残る」
「任せといて。コッチの方は心配しないで良いからさ。三上さんも気をつけて」
「ある意味、俺が一番安全だ。大丈夫だろう。何か分かった事があれば、合間を見て連絡する。拓実も、中川の手伝いが落ち着いたら、とりあえず、慶のマンションに戻ってくれ」
 振り向いて呼びかけた言葉に、拓実が無言で頷いた。
 緊迫した二人の様子が嫌と言うほど伝わってきて、息苦しい位の圧迫感を覚える。
 一稀やティコと違って、決して怖がりな方じゃないつもりだったのに、手が勝手に震えてしまうのを止める事が出来なかった。




 一足先にドアの方に向かって歩き始めた拓実を見て、三上がもう一度だけキスしてくれた。
 いつもと変わりない、穏やかな仕草で髪を撫でてくれた彼が、優しく微笑かけてきた。
「慶、俺達が出て行って鍵をかけたら、麻紀に連絡を取って欲しい。ジェイの怪我だから、一稀が入院していた病院に運ばれる筈だ。翔に聞けば場所は分かる。直接、ソッチに向かう様に伝えるんだ」
「分かった、直ぐに電話しておく……博人、ホントに気をつけて……」
「あぁ、ありがとう。俺が狙われてる訳じゃない。心配するな」
 軽くポンポンと頭を撫でてくれた、彼の身体が離れていく。
 無意識にその後を追って、二人と一緒にドアの方まで向かった。


 店の奥にいる時は気付いてなかったけど、外でかなりの喧騒が沸き起こっているのが、ドアの隙間から聞こえてくる。
 勝手にブルッと震えた身体を、思わず片手で押さえつけた。
 ドアの近くに寄るだけでも足が竦みそうになるのに、二人は平気な顔でスタスタと歩いていく。
 先に立つ拓実がドアを開けた途端、方々から大声が飛び交う、外の大騒動が聞こえてきた。
 予想以上の喧騒を目にして、本当にとんでもない事態になっている……と、初めて実感した気がする。
 残された僕達に向かって軽く微笑みかけてくれた二人が、ドアの向こう側に姿を消して、バタンと言う音と共に見えなくなった。






 ドアの方に近付き、ドアノブに手をかけた。
 彼に言われていた通りに鍵をかけようとした瞬間、胸の奥がギュッと痛んで、指先が止まってしまった。
「大丈夫だよ、慶さん。三上さんは本当にしっかりしてて、強い人だから。何も心配しなくて良いよ」
 背後から聞こえてきた声に、慌てて後ろを振り返った。
 普段と同じ、穏やかな表情で見守ってくれている橋本の姿に、苦笑しながら頷いた。
「……そうだね。自分の身は、自分で守れる人だもんね。僕もしっかりしなきゃ」
「拓実と三上さんが戻ってくるまで、俺達も自分の身を守らなきゃ。二人が戻ってくるまで、皆でマンションで待ってようぜ」
 殊更明るい口調で励ましてくれる橋本に頷き、大きく深呼吸して心を決めて、ガチャリと音を立てて鍵を閉めた。
 本当は心細くてしょうがないし、彼の姿が此処に無いのに鍵をかける……っていう初めての出来事にも、本当に躊躇ってしまう。
 いつも傍にいてくれる彼を追い出して、このままずっと離れてしまうみたいで、胸がギリギリと痛んでしょうがない。
 でも、橋本が背中を押してくれた通り、僕達に出来るのは全員無事でマンションに辿り着いて、二人を安心させてやる事だった。


「――――……ママ、……」
 不安気な声に呼びかけられ、その方に視線を向けた。
「平気だよ、莉緒ちゃん。裕真が一緒にいてくれるから、何も心配しなくて良いよ。今日は帰らなきゃいけない用事がある?」
「何も無い……私もママの所に泊まっても良い?」
「うん、その方が良いよ。明日のお昼頃、外が明るくなってから誰かに送って貰おうね」
 一稀に負けず劣らず小柄で華奢な莉緒は、僕と同じく気持ちは女の子な方で、本当に気が弱い。
 ミニスカートにヒールの靴を履いた可愛らしい女装姿で、心細そうにコクリと頷いた彼の背中を、橋本が軽く擦ってあげた。
「後片付けの方は、俺が莉緒ちゃんを手伝うからさ。早く終わらせてマンションに戻ろう。慶さんは先に、麻紀さんに電話をかけてあげてよ」
「ありがとう、裕真。そんなに丁寧じゃなくて良いから。明日はお店も開けないし、ザッとで構わないからね」
 莉緒を促しつつキッチンに向かう橋本に声をかけ、携帯電話を手に取った。
 かけ慣れた番号を直ぐに探し出し、いつもの様に鳴らしながら、大きく深呼吸を繰り返した。


 皆から「落ち着いてる」とか「いつも冷静だな」って言われる事が多いけど、全然そうじゃないと思う。
 こんな時には胸の鼓動を抑えきれずに動揺するし、最愛の彼が傍にいない事にも、どうしようもない不安を感じてしまっている。
 でも、目の前で恋人が刺されてしまうのを目撃してしまった一稀の身と比べたら、この程度で弱音を吐いている場合じゃない。
 そう自分に言い聞かせながら、麻紀が電話に出てくれる時を、ジッと無言で待ち続けていた。






BACK | TOP | NEXT


2010/05/29  yuuki yasuhara  All rights reserved.