Eros act-4 12

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 営業中の店を抜け出し、藤原の件を相談に来た祐弥が最初に考えていたよりも、話が少々長くなってしまったらしい。
 「時間が余ったら、何か食べて帰ろうかな」と言っていた祐弥は、結局、そのまま帰る事になった。
 皆で一緒の飲茶は次の機会までお預けになったものの、本来の目的はスッキリと解決したから、気持ち的には楽になった様だ。
 見慣れた笑顔で「そろそろ戻らなきゃいけないから」と話す祐弥を見詰めながら、ふと、彼に初めて出会った幼い頃を思い出した。




 まだ言葉も満足に話せない小さな子供の頃、両親と一緒に日本にやってきた祐弥は、その当時からとても素直で、彼から受ける印象は今でも全然変わっていない。
 物心付く前からほとんど日本人同然に育った事もあり、本当は台湾出身なのを嫌がっても仕方ないと思うし、実際に、祐弥と似た境遇で育った奴の中には、台湾人なのを隠し通している者も少なからず存在する。
 それなのに、彼はそんな事は全く考えてもいない様で、祖国を忘れて欲しくない両親の願いを素直に聞き入れて、台湾人の子供達が集う学校にも通い、こうして何かと同胞の元に顔を出してくれて、今でも皆ととても仲良く交流している。


 日本人と台湾人の中間みたいな位置にいる祐弥は、双方を気侭に行ったり来たりして過ごすのが、彼にとって極自然な状態になるらしい。
 そんな生活を送っている影響もあるのか、相手がどんな奴でも分け隔てなく誰にでも人懐っこい彼は、売り専の仕事にも馴染んでいるらしく、常連の男達に可愛がられ、それなりに人気もあるそうだ。
 もう少年とは呼べない年齢になり、売り専ボーイとしては引退の時期も近付いてきた祐弥だけど、あの街から離れるつもりはないと以前から話していたし、彼にとっても重要な事件だったんだろう。
 和やかな笑顔で礼を告げてくれて「また遊びに来る」と言い残した祐弥の姿が、バタンと音を立てて閉められたドアの向こう側に消えた瞬間、トミーが深々と溜息を吐いた。




「確かに目の前なんだけどさ。何でわざわざ、あの界隈を選んだのかなぁ……阿公をジェイの店に招待したのって、確か、深水さんだったよな?」
 困惑気味に問いかけてきたトミーの方に視線を向け、徐に頷き返した。
「あぁ、そうだ。今では連れ立って遊びに行く事も少なくなったが、初めの頃は深水と一緒に通っていたな」
「だよなぁ……深水さんが、藤原さんにあの辺りへの出店を勧めたのかな。気に入ってる界隈だしさ」
「いや、違うだろう。周囲の皆には『ゲイなのを隠している』と言っていた。あの当時から、皆に知られるのを本当に怖がっていたし、それは今でも続いている筈だ。彼が同性愛者だと知っているのは、私達以外では、昔、ヒロがやっているニューハーフ店に勤めていた、『慶』と言う男だけだと聞いている」


 事も無げに皆にも「俺は同性愛者なんだ」と公言している祐弥と違って、深水はそれを周囲に知られる事を、昔から異常なまでに恐れていた。
 それは性格的な違いもあるだろうし、周囲の環境による問題も大きいだろう。
 深水のやっている仕事上、やはりゲイであると周囲に知られるのを躊躇ってしまう気持ちも、それなりに理解出来る。
 だからこそ、日本人社会の中では彼と同じくマイノリティーグループに位置する、台湾人の私達だけに本当の事を教えてくれたのかもしれない。
 あの街に入ってプライベートで出会う時の、やたらとリラックスして饒舌な彼の様子を思い出したのか、トミーが納得顔で口元を緩めた。


「そうか……祐弥に説明する時、阿公が『知人に招待されて……』とか誤魔化してたからさ。何か心当たりがあるのかと思った」
「確かに、彼等の中で深水の話も出ている様だが、そもそも、彼は政治部門で動いている奴だ。今回の件には無関係だろう。深水自身が嫌がっているし、彼の正体を詳しく説明する必要は無い」
「言えてるな。普段の生活が一日中演技している様なモンだし、そっとしといた方が良さそうだ」
「今回の進出話を聞いて、一番困惑しているのは深水だろうからな。多分、あの界隈にも顔を出せずにいるだろう。唯一、深水がありのままの姿で遊べる場所だったろうに……可哀相にな」
 普段の造り上げられた彼とのギャップを知っているからこそ、本当に気の毒に思う。
 人並以上に警戒心の強い深水は、どんな奴等が集っているのか分からない、他のゲイ街に遊びに行く事はない。
 とは言っても、風俗部門とは全く関係の無い所で動いている彼が、藤原に撤収を進言出来る立場じゃないから、黙って見守るしか術がない。
 複雑な思いで藤原に付き従っているであろう、深水の心中を察してみただけで、トミーと同じく、溜息しか出てこなかった。


「それにしても、ヒロがそんな事を企んでいたとはな……トミー、何か聞いていたか?」
「いや、俺も初耳だった。祐弥の話だと、まだ手を付け始めたばかりだろうしさ。それに、あの界隈の皆が不快に感じている通り、無意識に軽く考えていたんじゃないかな。今までみたいに、容易く進出可能だろう……ってさ」
「恐らく、その通りだろう。いずれにしても今回の件に関しては、私にも責任がある。風俗界への進出をヒロに勧めたのは私だからな……」
 尋常じゃない位に聡明な藤原が、一つの世界を制覇しただけで満足する筈がないと、最初から分かっている。
 それなのに、何の助言も与えずに放置してしまった私自身の落ち度を、改めて感じてしまった。




 親しくしていた彼の祖父から、自身の跡継ぎとして孫の藤原を紹介された時、少し話しただけでも分かる資質の高さに、真剣に驚いた。
 人間の本能として、支配欲と自己顕示欲は同程度の比率で存在する。
 表社会では何の問題にもならない同系統にある二つの欲望を、まだ義務教育の学校に通う年頃だった彼は、当然のごとく、完全に切り離して考えていた。
 表で活動する政治家達や日本のヤクザ者達はともかく、彼が祖父から受け継ごうとしている世界にとっては、自己顕示欲そのものが身を滅ぼす危険がある。
 桁外れの支配欲に相反し、自己を表に晒して満足感を得る顕示欲や名誉欲は、欠片も持ち合わせてはいけない。
 ほとんどの人間が実現不可能な、その微妙な欲望心理を、まだ子供だった藤原は完全に理解していた。


 極普通の一般市民にしか見えない祖父同様、一見では野望の欠片も持ち合わせていない様に思える彼は、その役所を完璧に演じきっていく。
 一般的には名前どころか、その存在すら悟られずに裏政界の中心にいた祖父同様、暗闇に身を潜めたまま、彼は静かに統御の手を伸ばしていった。


 今はもう亡くなってしまった祖父から裏社会での権威を完璧に引き継いだ後、足場も固まって落ち着いた彼は、ビジネスの世界に興味を示し始めた。
 強烈な支配欲を持つ彼が、一つの世界だけで満足出来る筈がない。
 継承した世界だけではなく、自分自身の手腕での支配を欲する藤原に向かって、その覇気を聞かされた私は風俗界への参入を勧めた。
 一般的なビジネスの世界だと、その名が知られる可能性も高いし、本人の意思の有無に関わらず、表舞台に出てしまう可能性が高い。
 それは政界の裏側で暗躍する彼にとって、かなり危険を伴う賭けであった。
 何より、彼自身の気質としても、自身を評価され人目を引いてしまう事を、極端なまでに嫌っている。
 だから元々暗躍出来る土壌が育っている、実際に裏社会の者達が数多く蠢いている風俗界への進出を勧めた。


 身を置いている世界と似た気質のある風俗界を、彼はとても気に入ってくれたらしい。
 風俗界の支配も着々と進めていく彼が、次に狙うであろう世界など、冷静に考えれば簡単に予想出来た。
 あの界隈に対しても、今まで同様、自身の姿を出さずに手を伸ばそうとしている彼は、風俗界というのは「そんな世界だ」と考えているのかもしれない。
 だとしたら、詳細を説明せずに勧めていた私にも、責任の一環があった。


 一言の相談も無しに進んでいた事柄を、彼に向かって咎める理由は一つも無い。その全貌が掴めてくるまで、全てを極秘裏に進める方法論は、彼にとって当たり前のやり方だった。
 むしろ、今回の話をジェイに洩らしてしまった事の方が、彼らしくない異例な出来事だと思える。
 彼がジェイに興味を持っていたらしい事も初耳ではあるけど、その辺りは何となく納得出来た。
 東郷家の異端者として扱われている立場を気にする様子もなく、着々とビジネス界での存在感を深めつつあるジェイの姿に、藤原にしても何か惹かれる物があったんだろう。
 混血の私生児として産まれ、何年もスラムで生活していた事程度は、ジェイの生い立ちとして知っている者も少なくない。
 それを伝え聞いた藤原が、自分と同じ闇の部分を持つジェイに対し、一方的な親近感を持っていたとしても不思議ではなかった。




 私自身も、深水に連れられ、あの界隈で遊ぶ様になって初めて知った事実に、いつも通りに裏側から指示を出し続けている藤原は、まだ気付いてないんだろう。
 今までより少しだけ長く日本を離れている間に、唐突に巻き起こっていた事態に、どう対処すべきなのか――――
 私と同じく困惑した表情を浮かべているトミーと二人で、店の開店時間がやってくるまで、静かに意見を交わし続けていった。






*****






 仕事に向かう準備を続ける慶の姿を、リビングのソファに腰掛けてのんびりと待った。
 ポケットに携帯電話や財布を突っ込んで終わりの俺と違って、色々と身だしなみにも気を使う慶の準備は、それなりに時間がかかる。
 普段通りに適当に雑誌を眺めつつ、慶の支度が整うのを待っていると、彼の携帯が着信音を鳴らし始めた。
 これもよくある事だから、特に気にする必要も無い。
 電話越しに話し続けながら支度をしている慶の声に、何となく耳を傾けていた瞬間、聞こえてきた意外な内容に、顔を上げて彼の方を見詰めた。




「珍しいな、先に用事を済ませるとかさ。急用でも入ったのか?」
 こうして出勤前に急な電話が入ってきた場合、慶は一旦、お店に顔を出して皆と会話を交わし、それから用事を済ませに出かけるパターンが多い。
 出勤を後回しにするなんて、よっぽど重要な用件なんだなと思いつつ、携帯電話を切った慶に問いかけると、バッグの中に携帯を仕舞った彼が、楽しそうに微笑んだ。


「かかってきたよ、藤原さんから。少し聞きたい事がある……って。今しか時間が無いみたいで、向こうの街中にある、彼が事務所代わりに使っているホテルに呼ばれた。先に話を済ませてくるね」
 そろそろ打つ手も見つからずに行き詰ってくる頃だし、近いうちに連絡が入るだろうと、慶は数日前からそんな事を話していた。
 予想していた連絡だから、慶も、ある程度は心構えが出来ていたらしい。
 急な呼び出しに慌てる様子もなく、またいつも通りに支度の続きを始めた慶を眺めたまま、ほんの少し考え込んだ。


「そうか……何となく心配だなぁ。俺じゃ助言も出来ないだろうが、一緒に行ってやろうか?」
「え、大丈夫だって。拉致監禁したりとか、そういう暴力的な事をする人じゃないから。今だって、藤原さんが直接電話してきたんだよ。何か企んでたりするのなら、もっと別な方法で呼び出すと思うな」
「あぁ、その辺りは平気だと思うが。俺は何を心配してるんだろう。藤原は俺と違って凄いヤツだし、久しぶりに顔を合わせて、慶が心変わりしないかなぁ……とか考えてるのかな?」
 自分でも、一体何が気になっているのか分からないものの、漠然とした不安感だけが拭いきれない。
 慶は一人で何でも出来る堅実なヤツだし、俺なんかの心配なんて不要だと分かっている。
 少し違う気はするけど、とりあえず思い浮かんだ事を口に出して話してみると、小声でフフッと笑った慶が、準備の手を止めてキスしてくれた。


「そういうのは絶対に無いから。大丈夫だよ。1時間位で戻ってくるから、あの交差点の所まで迎えに来てくれる? 話が終わったら、直ぐに電話するからさ」
「分かった。何なら、ずっとあの辺りで待っていても良いけどな」
「一人で待ってるのも退屈だろうし、お店でゆっくりしてた方が良いと思うよ。僕の代わりにお店にいて、お客さんの相手をしてて欲しいな」
 一人で何処かへ出かけた慶が「迎えに来てくれ」なんて言ってきた事は、彼と暮らし始めて何年も経つけど、今までに一度も無い。
 俺を安心させる為に言ってくれたんだと思うけど、慶独特の気遣いを感じて、それをやけに嬉しく思う。
 少し楽になった気分で静かに頷き、準備が整った慶と連れ立って、二人で暮らす家を後にした。






「俺は藤原ってヤツと会った事もないから、ソイツの性格は分からないが……話ってのが『進出の手助けをして欲しい』って頼みだったら、慶はどうするんだ?」
 ふと思い出して、隣を歩いている慶に訪ねてみると、彼は楽しそうに頬を緩めた。


「そうだなぁ……普段の藤原さんなら、絶対にそんな話を言ってくる人じゃないけど。今回はありえるかもね。でも、もしそうだったとしても、僕が手伝ってあげる事なんか、何も無いんじゃないかな」
「まぁ、そうだけどな……藤原の方からすれば、その理由自体が理解不能だろう」
「僕もそう思う。だから今回は『教えてあげる』って感じになるだろうね。どうして皆が受け入れてくれないのか、その理由を彼が理解出来る様に説明する位しか、僕に出来る事はないよ」


 とにかく不快感が先に在るらしく、拒否を前提に動いている麻紀と違って、慶は少し距離を置いた所で、基本的に中立の姿勢を保つ事に決めている。
 皆と同じく、街の雰囲気を乱して欲しくないと思う気持ちはあるものの、昔、彼の元で世話になっていたのは紛れもない事実だし、その恩義も充分に感じている。
 何日もかけて悩んだ挙句、そう決心した慶の立ち位置に頷き、俺も今回の件に関しては、外から見守る事に決めた。
 俺としては見知らぬ相手を敵に廻す必要もないし、慶がそう決めたのなら、それに反論する気はまったく無かった。




「……じゃあ、店で皆に説明しておく。話が終わったら迎えに来るからな」
 分かれ道になる交差点で足を止め、隣に立つ慶に話しかけた。
「ん、分かった。藤原さんも忙しいみたいだから、直ぐに話は終わると思うよ」
「そうだな。店の方は心配するな。皆は不満だろうけど、俺が慶の代わりに客の相手をしておくからな。急いで話して言い忘れがあって、後から何度も呼ばれるのも面倒だ。時間一杯まで話し合ってくるといい」
 慶との楽しい会話が目的でやってくる連中も多いから、彼が不在の時は本気でがっかりされる事が多い。
 1時間程度なら、何とか俺でも飲み相手ぐらいは出来るかなぁ……と考えつつ和やかな笑顔の慶に伝え、向こう側に渡っていく後姿が見えなくなるまで、交差点の片隅で見送った。


 もっとも、慶が不在の時に一番落ち着かないでいるのは、他でもない、俺自身だったりする。
 むしろ、浮き足立ってる俺の相手を客がやってる様なモンだなと考えながら、立派なママである慶の言い付けを守って、一人で大人しく店の方にへと向かって行った。






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2010/05/05  yuuki yasuhara  All rights reserved.