Eros act-3 16

Text size 




 『売りをやって金を稼ぐ』って事を少しだけ覚えた頃、この街でもっと快適に過ごす術を教えてくれたのは、あのバーで偶然隣に座った、出逢ったばかりの麻紀だったのかもしれない。
 慶の店に遊びに行く様になったのも、麻紀があの時『もっと落ち着いた雰囲気で、一人でも楽しく遊べる店がある』と教えてくれたからだった。
 それが当然になったから、もう俺が忘れてしまっただけで、他にも色んな話を聞いた気がする。
 たった一度だけ、ほんの一時間程度、軽く話をしただけの麻紀をずっと忘れずに覚えていたのは、きっと自分でも気付いてなかっただけで、もう一度、彼とゆっくり話してみたいと感じていたからなんだろう。
 麻紀が本当に悪いヤツだとしたら、俺がこんな事をいつまでも覚えている筈がないし、もっと嫌な印象が残っていたと思う。
 ジェイから麻紀の話を聞いた時も、反射的に『何か理由があるに違いない……』って、理由も無くそう確信していた。




「すっげぇ痛かったし、怖かったけど……でも、俺はそんなに怒ってない。入院してる時もジェイと沢山一緒にいれて嬉しかったし、前よりも仲良くなれたから。悪い事ばかりだとは思ってないぜ。それより、一度しか会ってないけど、俺、何か麻紀に嫌われる様な事したのかな? って。ソッチの方が気になるんだけど」
 久しぶりに麻紀の話を聞いてから、ずっと気になっていた事を正直に問いかけると、麻紀がちょっと驚いた表情を浮かべた。
「……え? 一稀、あの時の事を覚えてたのか?」
「うん、麻紀の名前と顔も覚えてた。話した内容も、大体なら覚えてるぜ」
「そうか。一稀は忘れてるだろうなと思ってたんだけど。俺も一稀の事はハッキリと覚えていたから、この店に潜り込ませるヤツに颯太を選んでみた。一稀を基準で考えたら、颯太はジェイの好みそうなタイプだし、それに、中川の恋人も似たタイプの奴だと聞いたからな。翔から話を聞いただけで顔を見るのは初めてだけど、颯太の隣にいる子だな。まぁ、颯太ならこの店の雰囲気に合っているし、雇って貰えるだろうと思ったんだ。ジェイはもう、面接には係わってない様だけど」


 離れた所で話を聞いているティコと颯太の方に、麻紀が話しながらチラリと視線を向けた。
 たったそれだけで面白い位に身体をビクリと震わせた颯太と、平気な顔で彼の背中を擦って宥めているティコの様子を眺めていた中川が、事務机に半分腰を降ろしたまま、思いっきり顔を顰めた。
「麻紀、お前のやり方に口を挟むつもりはないが……少し威圧し過ぎじゃないのか? 颯太のお前に対する怯え方は、少々異常だと思うぞ」
「そうかな? 俺は普通に接していたつもりだ。翔や、他の店に勤めている連中と接するのと変わらない。颯太にも、特別にきつい言葉をかけた記憶は無いんだけどな」
「お前の自覚が無いだけじゃないのか? そもそも、タカみたいに悪行慣れしている奴ならともかく、颯太は極普通の男だぞ。そんな奴に偽名を使わせ、潜入させて情報を得ようなんてのは無理な話だ。真っ当な奴なら、そのうち良心の呵責に耐え切れなくなってきて、こうして焦ってボロを出すのがオチだろう。金で無理矢理、解決出来る様な重圧じゃないからな。特にコイツみたいな性格の奴には、精神的な負担が大き過ぎる」
 俺達には何にも言ってなかったけど、店長としての視点から見れば、そういう部分が気になっていたのかもしれない。
 真顔で忠告を続ける中川の言葉を聞きながら、麻紀が微かに顔を顰めた。
「そうなのか? 俺は颯太に『偽名で入店する様に』とは言っていない。最初から、普通に働いて分かった事だけで充分だと思っていたし。別に気にしなくても良かったのに」
「は、はい。すいません、俺が勝手に偽名を……あの、やっぱりちょっと後ろめたくて、本名は言い難くかったんです。でも、バレてないと思ってました……本当にごめんなさい……」
 確かに麻紀に怯えてるのもあるだろうけど、颯太は偽名がとっくの昔にバレていた事にも、真剣に驚いたらしい。
 泣き出しそうな顔で俯き、今にも消え入りそうな声で話す颯太を見詰めながら、麻紀が困った様子で自嘲気味に口元を緩めた。


「颯太が謝る必要は無い、頼んだのは俺の方だ。颯太も売り専で働いてる位だし、もっと世馴れたヤツだと勝手に判断していた。俺が軽く考え過ぎていたし、いつの間にか色々と判断能力が鈍っていたんだろう。颯太にも悪い事をしてしまったな。あの時に一稀と話をして『売りをやるのはスレた奴ばかりじゃないんだな』って、分かっていた筈なんだけどな」
 苦笑しながら視線を向けてきた麻紀の姿を、ジェイに肩を抱かれたまま、ちょっと首を傾げつつジッと見詰め返した。


「え、俺の事?」
「そうだ。店で飲んでる一稀を見て、随分と可愛いヤツだなって好感を持った。だから、一稀も売りをやってるのを知った時は、少し意外だと思った。いずれにしても一稀には良い印象を持っていたから、一度しか話をしてないけど、俺はずっと覚えていたんだろうな」
「俺も同じかも。あの時に麻紀と話したの、すごく楽しかったからさ。でもその後、俺がジェイと付き合う様になっただろ? だから本当は、それで麻紀が怒ってしまって、タカ達に俺を襲うように頼んだのかなぁ……って思ってた」
 今でも、麻紀はそんな単純な理由で怒る様なヤツじゃないと思ってるけど、他に上手い言葉が見つからない。
 ちょっと違う気もするなとは思いつつ聞いてみると、一瞬言葉を詰まらせた彼は、やっぱり半分呆れた様子で苦笑した。
「確かに、俺はジェイを気に入っていたし、手に入れたいと考えていたけど。それは一稀の考えている感情とは、少し違う種類だと思う。きっと一稀には理解出来ないだろうし、お前が気にする事じゃない。それに、俺は別に怒ってないし、一稀を嫌いだとも思っていない」
「ホント? それなら良いけど。俺も麻紀を嫌いじゃないからさ、それを聞いて安心した」
「まぁな……そうだな。強いて言えば、君達が随分と楽しそうにしているから、少し邪魔したくなったんだろう。それにしては、かなり荒っぽい手段だったと反省している。一稀に大きな借りが出来てしまったな」
 そう答えながら少し頬を緩ませる麻紀を見詰めつつ、何となく、彼はこの状況を楽しんでるんじゃないかな……って、そう思えてきた。
 ジェイや中川、それに翔からも問い詰められて凄まれているのに、涼しい顔してお構い無しで答えている麻紀は、多分、そのうちこうなる事を予想していたのかもしれない。
 だって、どう考えても麻紀の仕業だってバレバレだったもんなぁ……と色んな事を思い返していると、黙って俺達の話を聞いていたジェイが、また不満気に顔を顰めた。




「悠長な事をぬかしてんじゃねぇよ。結局、てめぇの目的は何なんだ? 荒っぽ過ぎるとかいう問題じゃない。そもそも手段的に穴だらけじゃねぇか。俺と一稀の仲や、この店を引っ掻き回したかっただけなのか?」
 いくら睨みを効かしてみても、全く臆する風もない麻紀の態度に、ジェイが内心、かなり苛立っているのを、触れ合っている肌で感じる。
 何となく、麻紀が言い寄ってきたのをジェイが断った理由が分かるな……とか考えていると、麻紀が軽く鼻で笑った。
「だろうな。元から、俺が動いている気配を消そうという考えは無かった。そんな小細工をしてもジェイと中川には通用しないだろうし、逆に、この方が効果的だと思ったからな。二人共、俺の行動の意味を読み過ぎて、却って混乱を招くだろうなって考えた。その通りだった様だな」
「――――てめぇ……まぁ、いい。とにかく、俺の質問に答えろ。お前の最終的な目的は何だ? 一稀は許すつもりらしいが、実際にお前の仕業で怪我を負わされている。その目的に依っては、一稀が納得しても俺はそうじゃない場合もあるだろう。簡潔に答えろ」
 澄ました顔で淡々と答える麻紀の姿を、ジェイが思いっきり睨みつけながら、真正面から詰め寄っていく。
 そんな視線を意に介する様子もなく、麻紀は今までと同じ様に、真っ直ぐに見詰め返してきた。


「そうだな、そろそろ本題に入るか。最初に言っておくが、ジェイと一稀を嫌いな訳じゃない。俺は只、自分が一番上じゃないと気に入らないだけだ。そう考え出すと、この店が少々邪魔だと思う様になってきた」
「なるほど。自分の店より人気のある、クラブJを潰そうと考えた……って訳か」
「まだ最終的な手段までは考えていない。でも、そうするしかないだろう。俺はジェイの金を稼ぐ能力を評価しているし、本心から尊敬している。その能力は、俺が持ち合わせていない物だ。だから『一緒に手を組みたい』と思ったけど、ジェイは俺と話をしても、そう思ってくれなかったんだろう? 手を組めないのなら、仲間にもなれない。残念だけど、ジェイは『俺の敵だ』と、そう判断するしかない」


 彼の声色が少し哀しそうに聞こえるのは、絶対に、俺の気のせいなんかじゃないと思う。
 ジェイの問いに真っ向から応え、剥き出しの感情を初めて言葉にした麻紀を前に、ジェイが軽く溜息を吐いた。


「――麻紀。以前にも同じ事を話したが、そう極端に考えるんじゃねぇよ。てめぇは何かと、白黒ハッキリとさせたい癖がある様だな」
「俺はそういう性格だ。曖昧に済ませるのは好きじゃない。最終的に俺の害になる物なら、先に潰してしまう方を選ぶだろう」
「あぁ、それも分かっている。だから『お前とは一緒にやれない』と、あの時も言った筈だ。俺とお前じゃ、何もかもの考え方が根本から違っている。ある意味、真逆と言っても良いだろう。だから『共存』出来ると考え、お前と手を組む事を選ばなかった……いや、組む必要が無いと思った。麻紀、意味が分かるか?」
 今までとは全く違う、穏やかな口調で話しかけるジェイの姿を、麻紀は微かに眸を細めてジッと見詰めた。
「……共存? 俺とジェイとが、か?」
「そうだ。同じ所に立ってないのだから、潰し合いは意味が無い。俺の真逆にいるのがお前だ。それでバランスも取れてるんじゃねぇのか。あの時も言ったが、俺も麻紀を嫌ってはいない。それは一稀も同じだろう。だからコイツも、お前に敵意を持っていないんだと思っている。これで上手くいってるんだから、自分から無理矢理ブッ壊さなくてもいいんじゃねぇのか?」
 突然出てきた俺の名前に驚いたけど、ジェイが麻紀に言ってくれた事は、全然間違っていないと思う。
 話しているジェイに肩を抱かれたまま、思わず麻紀の方を見詰めて何回も頷いて見せた。


 俺は麻紀の事を嫌いじゃないし、ジェイもそう思っているのも分かっている。麻紀だって「嫌いな訳じゃない」って言ってるのに、何でこんな事になっているのか、話を全部聞いた後でも、どうしても理解出来ずにいた。
 無言でジェイの話を聞いている麻紀が、どう思ったのかは分からない。
 ジェイの気持ちがちゃんと伝わってれば良いんだけど……と、やきもきしながら、無言で考え続ける麻紀の姿をジッと見守っていった。






BACK | TOP | NEXT


2009/8/21  yuuki yasuhara  All rights reserved.