Eros act-3 12

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 一稀が怪我をした原因の話を聞いてから、それがどうしても頭から離れてくれない。
 忙しい筈の仕事に集中しなきゃと思うのに、ふとした瞬間に思い出して、そわそわと落ち着かなくなってしまう。
 気もそぞろなのが皆にも分かってしまったのか、「少し休んでこい」と早めに休憩が廻ってきたから、事務所の隅にある休憩場所にへと向った。
 誰もいない、シンと静まり返った事務所の隅にポツンと一人で座ったまま、色んな事で頭が一杯になって、どうすれば良いのか分からなくなってしまった。


 何であんな依頼を引き受けてしまったんだろう? と、今では本当に後悔している。
 見聞きした出来事を教えるだけだし、友達との雑談と変わらないからと軽く考えていたのに、いざそうなってみると、それは全然違っていた。
 この店が募集を出していたのは、あの時、麻紀から聞かされるまで知らなかったから、自分の意思で面接に来たかどうかは分からない。
 でも、本当にそうだったらどれだけ良かっただろう……って、そんな事ばかりが頭に浮かぶ。
 皆、すごく楽しい人ばかりだし、此処に来て仕事をするのが毎日の楽しみになっている。
 俺はそんな皆に隠し事をして、お金を貰ってこの店の情報を麻紀に話してるんだと、そう考えるだけで辛過ぎて、目に涙が滲んできた。


 もう皆を裏切りたくないし、お金なんか全然要らない。だから「話せる事が無くなったから」って、麻紀にそう言って終わりにしたい。
 心の底からそうしよう、って考えているのに、少しだけ「そう簡単に麻紀が納得してくれるだろうか?」と、それが不安になっていた。


 本当に、もう麻紀に教える事も無くなりつつある。
 副店長のティコよりも長く店に勤めていて、店長達が休みの日には、その代理で店を仕切ったりする拓実ならともかく、入ったばかりで自分が仕事をするのに必死な俺が分かる事なんて、本当に些細な事柄しかない。
 きっと麻紀が知りたい様な事は無いだろうって思うのに、彼がすんなり納得してくれるかどうか……その判断に迷ってしまった。
 確かに今までに教えた事もあるけど、お金を貰うだけ貰っといて「もう止める」って簡単に言うのは、いくら何でもマズい気がする。
 麻紀に「裏切った」と勘違いされて、一稀みたいに襲われたら――――そう考えただけで、身体が自然に震えだした。
 一稀やティコと似たり寄ったりな体格の俺は、一人でいる所を襲われでもしたら、なす術も無く袋叩きにされるしかない。
 麻紀を怒らせる事なく「もう無理だ」と納得して貰って、すっきりとした気持ちでクラブJで働くにはどうしたら良いか。それを必死に考え続ける。
 本当に泣きそうな気分になりながら、縋る様な気持ちで、誰もいない机の方をジッと見詰めた。
 今までよりは役に立ちそうな事を伝えて、「もう話せる様な事は分からないし、お金も要らないから」と言い募れば、麻紀も納得してくれるかもしれない。
 とにかく、手ぶらで麻紀の所に行って話をするより、少しはマシなんじゃないか……
 その考えに激しく追い立てられる様な気分で立ち上がって、ふらふらと店長が使っている事務机の方に歩み寄る。
 こんな事しちゃダメだって思うのに、こうしないと終わりに出来ないと焦ってしまう。
 混乱する頭で必死になって考えながら、震える手を引き出しに伸ばそうとした瞬間、事務所のドアがガチャリと開いた。




「颯太、具合悪いんだって? 大丈夫かよ」
 普段通りの表情を浮かべ、何の疑問も持っていない様子で話しかけてくるティコの顔を見た途端、頭の中が真っ白になった。
「――――ごめん、ティコ……俺、ホントに軽い気持ちだったんだ。だから、誰にも迷惑かけないって思ってたのに……」
「ちょっ…… 颯太、落ち着けって! 何の事だよ!?」
「もうダメだ、俺が此処にいちゃいけない。また一稀にも迷惑かかるから……!」
 自分でも何を言ってるのか分からない。とにかく、優しいティコの顔を見るのも辛過ぎる。
 何だか訳が分からないけど涙が出て、驚いた表情を浮かべたティコの顔が滲んできた。
 ずっとお店にいたかったけど、最初から皆を騙していた俺は、このまま此処にいても仲間になんて入れて貰えない。
 駆け寄って来たティコを押し退けようと揉み合いになっていると、またドアがガチャリと開いた。


 正面から俺を押し留めようとしているティコの身体の影から、チラリと店長の姿が見えた気がした。
 俺とそんなに体格は変わらないのに、意外と力の強いティコから逃れようともがいていると、突然、頬にバシッと強い衝撃が走った。


「店長! 何やってんだよ、颯太は何もしてないって!」
 ティコの身体から離れ、ガタンと音を立ててロッカーにぶつかった瞬間、彼の怒鳴り声が聞こえてきた。
「……あ、悪い。つい……」
「いきなり叩いちゃダメだろ。颯太も何か混乱してるみたいだから、落ち着かせて話をしようと思ってたのに。怖がらせてどうするんだよ」
「すまん……無意識に手が出た。颯太、大丈夫か?」
「もう、大丈夫じゃないよ。店長は力が強いんだからさ。すっげぇ赤くなってるじゃん。店長もジェイも、怒るより先に手が出る癖は直した方が良いって。一稀もそう言ってたぜ」
 ロッカー前の床に崩れ落ち、呆然としている俺の代わりに、ティコが何故だか店長に向って小言を言い始めた。
 副店長というより『恋人』に怒られ、やたらと恐縮している店長を尻目に、ティコが腕を取って立ち上がらせてくれて、いつも店長が座っている椅子の所に連れて行ってくれた。


「ごめんな、颯太。店長とジェイって、いつも言葉より先に手が出るんだよな。俺もボーイの頃は、しょっちゅうジェイに引っ叩かれてたからさ。真剣に怒ってる訳じゃないし、あんま気にしなくて良いから」
「あ、うん……俺が悪かったし。黙って逃げようとしたんだから、殴られて当然だと思う」
 確かにちょっとビックリしたけど、逆に混乱していた気分が一気に落ち着いてきた。
 二日酔いで出勤してきた奴等が、休憩中に痛む頭を冷やすのに使っている保冷剤をタオルに巻き、ジンジンと痛み出した頬に当ててくれるティコを見上げながら、本心からそう答えた。


「いきなり殴って悪かった、颯太。それは俺が行き過ぎてしまった」
「いえ、大丈夫です。ホントに、俺がティコから逃げようとしたのが悪いから」
「そうか……何故、逃げようとしていたんだ。何かまずい現場に、ティコが顔を出したのか?」
 平然としたティコに怒られて、店長も気が落ち着いたのかもしれない。
 普段とまったく変わらない口調で、静かに問いかけてくる店長の言葉に、何だか妙にすっきりとした気分で素直にコクリと頷いた。
「俺……『サテンドール』の麻紀さんに頼まれて、此処に入店したんです。麻紀さんからお金を貰う代わりに、この店の様子を教えて欲しいって。別に、こんな風にコソコソ探るんじゃなくて、普通に働いてて分かった事だけで良いって言われたから、そんなに悪い事をしてるつもりはなくて……」
「なるほど。それなのに、今日は何かをするつもりだったのか?」
「もう、麻紀さんに話すネタも無くなってきたから。それで最後に少し大きな事を教えて、終わりにしたかったんです……何も無いのに『もう止めたい』とか言っても、絶対に納得してくれないかも……って。あの、全然そんな確証はないんだけど、一稀が襲われたのも麻紀さんが絡んでるんじゃないか? と思ったから。俺も簡単に止めたいとか言ったら、誰かに襲われるんじゃないかと怖くなってきて――――」
 俯いたままそう告げると、店長が深々と溜息を吐いた。
「店の様子か……そんな事を頼まれてたのか」
「はい。でも、それで何をするのかは、いくら聞いても教えて貰えないんです。だから、逆に気持ち悪くなってきたし、皆の事も騙してるみたいで、すごく罪悪感を感じてしまって……」
 そう話している最中、賑やかな話し声と共にドアが開いた。


「あれ、皆で何やってんの? 深刻そうな顔して」
 呑気に呟きながら事務所に入ってきた一稀の後ろに続く、まだあまり言葉を交わしたことの無い姿を見て、胸がドクリと音を立てた。
「あぁ、颯太か。動いたのか?」
 チラリと視線を流して問いかけてきたジェイに、身体が強張って返事も出来ないでいる俺に代わって、店長が渋い表情を浮かべて頷いた。
「まぁな。颯太には『店の様子を教えて欲しい』と言っていたそうだ。一稀の件を聞いたコイツが焦って動いたんだが、麻紀が頼んでいた事自体は、働いて判明した事だけで良い……だった様だな」
「やはり、コイツにはその程度だったか。まぁ、後は本人に聞けば良い。此処に呼んでいる」
 薄っすらと笑顔を浮かべたジェイが、来客用のソファに腰を降ろしながら、そうあっさりと答えてきた。
「麻紀を此処に呼んだのか?」
「そうだ。あと数分程度で到着するんじゃねぇか。俺が携帯を鳴らした時、自分の店にいると言ってたからな」


 そう話すジェイと店長の言葉を聞きながら、胸がドクドクと音を立て続ける。
 何だか意味が分からなくてガタガタと無意識に震え始めた身体を、暖かい掌がそっと優しく撫でてくれた。
「――――ティコ……」
「大丈夫だよ、颯太。酷い目には合わないから。麻紀が裏で動いてるらしいって、俺達は最初から分かってた。だから何も心配しなくて良いから。ジェイが颯太の代わりに、麻紀と話をしてくれる。颯太は頼まれてただけだし、俺達も怒ってないよ」
 いつも通りの笑顔を浮かべ、穏やかに教えてくれるティコの言葉を、目を瞠って聞くしかなかった。




 何がどうなってるのか全然分からないけど、もう逃げる事も出来そうにない。
 普段とまったく変わらない、リラックスした雰囲気の皆に囲まれたまま、只一人身体を強張らせて、隣で優しく肩を抱いてくれているティコの服を、ぎゅっと強く握り締めていた。






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