Eros act-3 10

Text size 




 普段なら誰かが必ずいる更衣室が、今日はシンと静まり返っている。
 同じ時間から入るヤツって誰もいなかったかな? と不思議に思いながら、とりあえず制服にへと着替えてみる。
 いつもと違う様子が気になるけど、とにかく店は開いてるんだから、臨時休業って筈もない。
 こういう日もあるんだな……と初めての雰囲気に戸惑いつつ、普段通りに準備を終わらせ、事務所にへと向った。




「あ、颯太! お前、今日は電車だよな。途中で一稀に会わなかったか?」
 事務所の扉を開けた瞬間、携帯を片手に真剣な表情を浮かべている拓実に、ほとんど怒鳴る様に問いかけられ、思わず2、3歩後退った。
「え、えっと……会ってないと思う。声もかけられてないし……」
「マジかよ。いつもと同じ時間帯の授業なら、そろそろ戻ってきても良さそうなんだけど。やっぱり、駅まで迎えに行った方が良いかな?」
 眉間に皺を寄せて呟いた拓実は、今度はそのまま、店長の方に向って問いかけ始めた。
 やたらと話し声が飛び交う周囲をよく見れば、同じ時間に出勤するヤツのほとんどが既に事務所に集まっているらしく、何の事やら分からないけど大騒ぎになっている。
 とりあえず俺は出遅れてしまった事と、今日は学校に行ってるらしい一稀が戻って来ず、まだ連絡が取れてないんだろう、って事は理解出来た。
 それは分かったものの、一稀が学校から戻ってくる時間が少々遅れるなんて珍しくもないのに、何で今日は大騒ぎになっているのか、ちょっと気になる。
 何があったんだろう……と気にしつつ、皆の様子を眺めていると、ぼんやりと突っ立っていた背後のドアが、唐突にガチャリと開いた。


「あ、一稀! お前、ドコに行ってたんだよ。心配するだろ!」
 事務所のドアを開けた瞬間、拓実にいきなり怒られた一稀は、ムッと顔を顰めながら中にへと入ってきた。
「え、そんなに遅くなってないと思うけど。ちょっとお茶してきただけだしさ」
「ばか、一言連絡入れとけって! タカが動き出したらしい。ジェイが連絡してきたんだ」
「――――え、タカが? マジ……?」
 サッと顔を強張らせ、言葉を無くして立ち尽くした一稀に、店長の中川が顔を顰めたまま頷いた。
「ジェイが探りを入れていた。タカの潜伏先を探し出して見張っていたんだが、どうやらコッチに向って動き出したらしい。誰かと会っていたのか?」
「あ、うん……駅前で慶に会ってさ。喫茶店で少しだけ話してきた。慶も店に出る途中だったから、ココまで一緒に来たんだけど」
「そうか、逆に良かったかもな。まだ日中だし、慶と一緒にいたんなら、いずれにしてもアイツ等も手を出せなかっただろう。ジェイが『お前と連絡が取れない』と心配している。とりあえず電話してやれ」
「やべ、授業前に電源落として、そのままだった……ジェイ、怒ってるかな?」
 慌ててジーンズに突っ込んでいた携帯を取り出し、そのまま電話をかけ始めた一稀の姿を、呆気にとられたまま眺めてみる。
 何はともあれ、一稀が元気に戻って来た事で話が解決したらしく、いつもの様に休憩場のソファに向う皆の後を追って、拓実の前に座り込んだ。


「拓実。俺、何か話がよく分からないんだけど。タカって誰?」
 何気なく問いかけてみると、煙草に火をつけていた拓実が、思い出した様に視線をジッと向けてきた。
「あ、確かに。颯太が店に入る前の話だもんな。すっかり忘れてたぜ。そりゃあ、何の事だか分かんねぇよな」
「うん、全然分かんね。でも、『探りを入れてた』とか『潜伏先』とか……何か聞いてて凄いんだけど」
「実際そんな感じ。一稀が怪我して骨折してた、って言ってただろ? あれはタカを入れた何人かに、店から帰る途中に襲われたんだよな。一稀を袋叩きにした後、タカ達は逃亡してたんだけどさ。俺も今日初めて知ったんだけど、ジェイがアイツ等を探し出して見張ってたらしいな。それが動き出したんだってさ」
 そう教えてくれる話を聞きつつ、背筋がゾクリと粟立った。
「え……? 一稀、襲われて怪我したんだ……」
「まぁな。それもだけど、襲われた理由が分からないから不気味でさ。一稀とタカって、全然接点がねぇんだよな。もしかしたら、他の誰かに頼まれて襲ったのかもしれない。だから皆も心配してるんだよな……ってか、そんな顔すんなって! 颯太が襲われたりしないから」
「あ、うん……それは分かるけど……」
「大丈夫。お前が何かされる前に、俺やティコの方がヤバイって。一稀と仲良いからさ。俺達が何にもされてないんだから、颯太は心配する事ねぇよ。一稀も店にいる限りは安心だし、今日はもう平気だって」
 すっかり安心した様子で話しかけてくれる拓実に頷きながら、胸の鼓動がどうしても治まってくれない。
 ――――それはきっと、麻紀の仕業だ……
 話を聞いた瞬間、理由も無く、そう確信してしまった。


 麻紀にこの店の内部事情を知らせて欲しいと、そう頼まれた時に、一稀の事なんて一言も言われていない。
 その名前すら、麻紀が口に出した事はないけど、絶対に麻紀がタカって奴を動かして一稀を襲わせたんだと、それが頭の中から、どうしても離れようとはしなかった。


 何でそう思ってしまったのか、自分でもハッキリとした理由なんてない。麻紀が一稀に危害を加える理由も分からないけど、きっとそれは当たっている。
 強張った顔を「怖がっている」と思ってくれたのか、皆が急に違う話題を話しかけてきた。そうやって、普段から何かと気遣ってくれる皆の姿も、胸の奥にジンと重く響いてくる。
 優しく宥めてくれる拓実の言葉に頷きつつ、胸の中で動き始めた色んな気持ちの一つ一つを、必死になって纏めていった。






*****






「ばか、怒ってねぇよ。心配するな…………そうだ。俺が行くまで店から出るな……あぁ、そう遅くはならない。大人しく待ってろ…………分かった。じゃあな」
 電話の向こうで必死になって謝ってくる、一稀の焦り捲った声に笑いを堪えつつ、とりあえずソレだけを言い聞かせる。
 素直に店から出ない事を約束してくれた一稀の応えに安心しつつ電話を切ると、ちょうど先方との打ち合わせを終わらせたらしい田上が、此方の方に歩み寄って来た。


「社長。一稀くんは……?」
「今、電話がかかってきた。授業前に電源を切って、そのままにしていたらしいな。もう店に着いたそうだ」
「そうですか、それなら良かった。何かあった時には私が迎えに行ける様に、一稀くんから大体の時間割でも聞いておきます。その方が安心ですから」
 ホッとした表情でそう呟いた田上は直ぐに普段の顔に戻って、今終わらせたばかりの仕事の話を口にして、車に向って歩き始めた。
 彼と並んで慌ただしく次の移動先にへと足を向けつつ、普段通りの会話を交わしながら、ふと、田上がボソリと口走った言葉が頭の中に浮かんでくる。
 コイツもそれなりに忙しいだろうに……と、時折、楽しそうにもう一つの仕事にも顔を覗かせる彼の姿を、急に思い出してしまった。




 昼間の仕事に携わってる人間も含め、俺のやっている両方の生活を知っている数少ない者達の中に、秘書の田上も入っている。
 俺の秘書になるまでは極普通のサラリーマンで、今も仕事帰りに飲みに行く程度の平凡な生活を続けている田上にとって、俺の『もう一つの仕事』は、かなり刺激的なものとして映っているらしい。
 最初はかなり驚いていたものの、今では多少の事では動じなくなってしまった彼は、本人の意図している所かどうかは分からないけど、それなりに馴染んでいるんだと思っている。
 率先して口を挟んでくる事はないものの、「何だか別世界ですね」と興味津々で話を聞いている彼は、本当に現実離れした浮世事を、ほんの少し楽しんでいるのかもしれない。
 コイツも少々変わったヤツだなと、一般的な『社長像』とは遠く離れた所にいる男のサポートを平然とこなす彼の姿を、コッチも興味深く見詰めていた。




「それにしても、今頃コッチに戻って来て何をするつもりなんでしょうね。当分は動かないだろうと思ってたんですが」
 車に乗り込んで外の世界と遮断された途端、ハンドルを握りながら思い出した様に呟いた田上の言葉に、助手席で口元を緩めた。
「さぁな。だが、何かを頼まれている様子はないらしい。アイツの意思で戻って来た様だな。一稀からの電話の前に連絡があったが、今は適当に街をフラフラと歩きまわっているそうだ」
「そうですか……まぁ、何にせよ動きがあった事ですし。早く落ち着くと良いですね」
「そろそろカタが付くんじゃねぇか? 今夜中には解決するだろう。コッチの仕事も忙しい事だし、そう悠長に構えるつもりはねぇよ」
 きっと無意識ながらも少々楽しげに声を弾ませている田上に向って、ジッと前を見詰めたままそう答えた。


 あの街に戻って来たタカの狙いは、恐らく「一稀ではない」だろうと、それは何となく分かっている。だったら何の躊躇いもなく、此方も思う存分、自由に動く事が出来る。
 後ろ盾の無いアイツ等なんざ、鉄砲玉としての価値すらない。
 俺の方から動くか……と、そう決心した途端に変わってきたこの機会を、絶対に逃す訳にはいかなかった。


 田上に素っ気なく言い放った通り、今夜中に全てのケリをつける。
 その手筈を組み立てながら、全ての出来事のきっかけを作っている麻紀の思惑について、少しでも読み解いていこうと考えを巡らせていた。






BACK | TOP | NEXT


2009/6/20  yuuki yasuhara  All rights reserved.