Eros act-2 19

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 少し喉が渇いてきたから、ベッドから降りて冷蔵庫の方に向かった。
 食器棚からコップを一つ取り出すと、冷蔵庫から紙パックに入ったアップルジュースを取り出して、溢さない様に気をつけながら、ゆっくりとコップに注いでいく。
 普通に左手が使えた時も片手でこうやっていた筈なのに、何だかちょっとバランスが悪くて、動きがぎこちなくなってしまう。
 人間の身体って不思議だな……と心の底から感心しつつ、今日は上手く溢さずに注げた事に満足しながら、コップを持ってベッドの方に戻っていった。


 身体の痛みも大分良くなってきたから、ジェイがいる時や、誰かがお見舞いに来てくれた時なんかは、一緒に応接セットの方に座る事もあるけど、一人でいる時は何となく、ベッドでゴロゴロと過ごしてしている。
 部屋まで運んで貰ったお昼御飯も、テレビを見ながらベッドの上で食べて、また雑誌をパラパラと捲っていると、いきなりドアが開く音が聞こえてきた。
 ノック無しでドアを開ける奴なんて一人しかいないから、顔を見なくても分かってしまう。雑誌から視線を上げて、ドアの方を見詰めると、中に入ってきた彼に向けて笑顔を浮かべた。


「ジェイ、おかえり。家に戻ってきたんだ?」
「まぁな。今日はスーツが必要だったからな。大人しくしてたか?」
「ずっと病室にいた。あのさ、ジェイのお父さんが来てくれた。晩御飯を一緒に食べようってさ」
 持ち帰ってきた手荷物を机に置いているジェイに、そう教えてやると、少し頬を綻ばせたジェイが、ベッドの方にへとやってきた。
「そうか。ゆっくり話は出来たか?」
「ちょっとだけ。三十分位かな。『時間がきた』とかで帰ったから、診察の時間になったのかも。ジェイが日本に来た頃の話とか、沢山教えてくれた」
「何だ、俺の話か。そんな話を聞いた所で、何にも面白くもねぇだろう」
「そんな事ねぇよ、すげぇ楽しかった。お父さんに会う前の事は知らないから、直接ジェイに聞けって」
 ベッドに腰掛けたジェイに少しドキドキしながら問いかけると、彼は不思議そうな表情を浮かべた。


「俺がガキの頃の話……か。それを聞いて面白いのか?」
「だって、俺は知らない話だからさ。ジェイが話すの嫌じゃなければ聞いてみたいな」
「別に構わねぇが……大した話じゃねぇぞ。祖母と二人で暮らしていた、ってだけの事だからな」
 そう呟きながら、考え込んでしまったジェイの顔をジッと見詰める。別に大きな出来事がなくても、やっぱり、大好きな彼の小さな頃の話には興味があった。
 自分が小さかった頃を思い返して、ジェイも同じ様に小さな頃があったんだよな……と考えてみても、今の落ち着いた彼の姿からは、何だかちょっと想像出来ない。
 だから、少しでもそれを聞いてみたいな、って思いながら、彼が話し始めるのを胸を高鳴らせて待っていた。






 やけに嬉しそうな表情を浮かべて、ジッと見詰めてくる一稀に急かされ、もう忘れそうになっていた記憶を静かに辿っていく。
 本来、母親がすべき事を祖母が補っていたけど、それ以外は本当に、極々ありふれた生活を送っていた――――


 沢山の兄弟の末っ子として産まれた母は、その立場に似合わず随分と気が強くて、子供の頃から自立した女性だったらしい。
 自分の意思で、家から遠く離れた名門校を進学先に選んだ彼女は、そのまま一人で生活を続けて社会に出て、そして「父親にあたる人に、頼る訳にはいかないから……」と言いながら、大きなお腹を抱えて戻って来た。
 少し前に夫を亡くし、一人で生活を送っていた祖母は、「もう仕事は辞めて、此処で子供と一緒に暮らせばいい」と、何度も説得してみたらしい。母も散々迷っていたものの、子供を無事に出産した彼女は、「やっぱり、もう少しだけ頑張ってみたい」と言い残して、仕事にへと戻って行った。
 そんな末娘の姿に苦笑しつつ、残された一番幼い孫となった俺の面倒を引き受けた祖母は、まだ小さな俺が物心つく前から、その話を繰り返し聞かせてくれた。
 祖母はきっと、月に数回、顔を合わせるだけの母を恨まぬ様に……と、そう考えていたんだと思う。
 それが功を奏したのか、それとも、自立心旺盛な母に似たのかは分からないけど、残された俺は特にそれを気にする事無く、すんなりと自分の立場を受け入れ、順調に育っていった。


 普段一緒に暮らしてる祖母は穏やかな人で、祖母との暮らしは本当に静かで快適だった。
 その当時、もうかなりの高齢だった祖母と外で一緒に遊ぶ事はなかったけど、その代わりに沢山の本を読んでくれたり、昔話を色々と聞かせてくれて、それが本当に楽しかった。
 連続した休みがあると必ず戻ってきた母とも、顔を合わせる事は少なかったけど、何の問題もなく、彼女が俺の母親だと認識していた。
 一緒に庭で遊んだり、二人だけで遠くまで旅行に行ったり……その機会は少なかったけど楽しかった出来事として、今でもハッキリと覚えている。
 時々しか顔を合わせる事のない母も、一緒に暮らしてる祖母と同じ位、大好きな人だなと、子供心にも思っていた。
 伯父や伯母達は割と近くに住んでて、家族で遊びに行く時は、一緒に連れて行ってくれた。
 相手が祖母や母、伯父伯母の家族だったりと色々だけど、その分、一つの家族では味わえない位に沢山の想い出を作りながら、何の問題もない、ありふれた生活を送っていた。


 そんな静かな生活が変わったのは、祖母が亡くなった後からだった。
 既に高齢だった祖母は、病気で苦しむ訳でもなく精一杯の長寿を全うして、穏やかに遠い所へ旅立って行った。
 ここ数年間の祖母の様子を見ていて、その時が近いのは何となく感じていた。だから、当時はまだ子供だったけど、自分なりに色んな事を祖母の為にやってあげて、最後には別れの言葉をかけ、その時を静かに見守ってやった。
 祖母との永遠の別れについては、悔いの残る事は一つもない。
 最後は寝たきりになった祖母のベッド脇に座り込んで、小さい頃からの想い出を沢山話して、そして感謝の気持ちも伝える事が出来た。
 それを嬉しそうに聞いていた祖母に対して、自分が出来る事は全てやってあげたと、今でもそう思っている。
 只、その当時の俺は、祖母がいなくなった時間をどう過ごしていけば良いのか……それが分からず、一人で途方に暮れていた。
 もうそれなりに大きくなっていたし、日常生活の色んな事は近くに住んでいる伯母が手伝ってくれたから、何も困る事なんて無い。
 そんな事よりむしろ、大きな存在だった祖母を亡くし、ポッカリと空いてしまった気持ちをどうすれば良いのか。一人きりになってしまった、その長い時間を持て余していた。


 祖母と過ごしている時は短いと感じていた、夕食までの長い時間に何をすれば良いのか分からず、フラフラと周囲を歩いていた時、自宅から何とか歩いて行ける距離にある、周囲とは一線を課している一角にへと行き当たった。
 祖母が生きていた頃は、彼女と過ごす穏やかな時間が第一だったし、まだもっと幼かった頃、偶々通りかかった時に感じた雰囲気が気持ち悪くて、それっきり近寄った事はなかった。
 家の近くにあるのに、唯一、中がどんな所か知らない、その場所に対する好奇心を引き止めていた祖母の存在は、もう記憶の中にある物になってしまっていた。
 引き寄せられる様に足を踏み入れてしまった一角は、耐性の無い子供の心を刺激する物事で、無秩序に溢れ返っている。
 子供っぽいスリルにあっと言う間に心を奪われてしまった俺は、周囲の大人達が気付いた頃には、もう、その場にどっぷりと嵌まり込んでいた。


 気が向いた時にしか戻らなくなった家で待ち構える、母や伯父、伯母にきつく叱られ、その場では少々反省したりするものの、空いている時間を埋め得る楽しい刺激は、あの『スラム』と呼ばれて周囲から蔑まされている場所以外、見付ける事が出来なかった。
 祖母と暮らしていた頃には全く自覚の無かった、自分の奥底に潜む残虐さと、同性に性欲を抱く嗜好に気付いたのも、丁度その頃だったと思う。
 ガキ同士の喧嘩で敗者を陵辱し、虐げるその行為に、俺は明らかに違う欲望を併せ持ちながら没頭していた。
 時には自分がそれを受ける事もあったけど、それにさえも微かな快感を覚えてしまう。
 気に入らない者は力で捻じ伏せ、自分が欲しい物は、それを持つ者の存在を消してでも強奪する、この街のシステムを心底気に入ってしまっていた。
 少しだけ胸に残る、母や伯父母達、亡くなった祖母に対する罪悪感を抱えたまま、それでも、この刺激から抜け出す自制心を持てないまま、時間だけが過ぎていった。


 そんな生活が二年程続いた頃には、もう、立派なスラムの住民と化していた。
 俺はこの薄汚い街で死ぬのが当然なんだと、そう思うのが当たり前になっていた時、いつになく大きな喧嘩が巻き起こった。
 発端者が誰であるか、その理由が何であるのかなんて、もう誰も気にする事はない。
 怒号や殴打音が飛び交う中、目の前に飛び出してきた何人かを半殺しにして、振り向こうとした瞬間、背中を激しく突かれた様な衝撃が走った。
 なす術も無く倒れ込むと同時に、叫び声を上げる余裕もない位の激痛が背中を襲う。
 呆然と地面に伏せったままの俺を半笑いを浮かべて見下ろしながら、小走りに次の獲物に襲い掛かる男の顔を見て、ようやく、俺は背後から切りつけられたんだ……と、そう気付いた。
 大半の子供が大人になる前に命を落としていく、このスラムで、アイツは此処で産まれてから二十年も生きている。大人になってからスラムに流れ着いた者が、その姿を見ただけで怯える位、アイツはこの街で最強を誇っていた。
 弱者が強者に倒されるのは当然だと分かっていても、無抵抗にヤラれてしまった事が、本当に悔しくてしょうがない。
 だから起き上がって、アイツを倒しに行かなければ……と思うのに、短い息をするのもやっとな身体は、もうピクリとも動いてくれなかった。
 不思議と怖いとは思わない。只、悔しくてしょうがなかった。
 俺はこのまま死ぬんだろうか? と他人事の様に考えながら、薄れていく意識の中で、それでも尚、あの男を倒す手立てだけを必死になって探っていた。




 自分が流した血の海に倒れこんでいた筈なのに、意識を取り戻した時は、清潔なシーツの上にうつ伏せになって横たわっていた。
 異常な騒ぎに怖れを成した、スラム街近くに住む真っ当な住民が緊急通報して、大人数の軍警が突入してきたのと、俺が切り付けられて倒れたのとは、運が良い事にほぼ同じ時刻だったらしい。
 死の縁スレスレの所から、何とか引き戻されはしたものの、まだ予断を許す状況ではなかった。
 怪我を負ったのは背中だけの筈なのに、頭が強烈に痛くて意識は混濁してるし、ベッドに伏せっているのに眩暈と嘔吐感が襲ってくる。
 時折、周囲の様子が分かる位までは戻ってくる意識の中、母や伯父母達が来てくれているのが分かってはいたものの、朦朧とする頭の中で尚、あの男に対する報復の手段だけを考え続けていた。


 何とか正常に意識が保てる程にまで回復したのは、それから数日後の事だった。
 仕事は休みを取ったらしく、ずっと付き添っている母や伯母達などの見慣れた顔に混じって、異国の男性が無言で見守っているのに気付いた。
 母と病室で二人きりになった時、「あの男の人は誰だ?」と訊ねてみると、落ち着いた笑顔を浮かべた彼女は「ジェイのお父さんだ」と、そう教えてくれた。


 驚いて返事も出来ないでいる、俺の頭を優しく撫でながら、母は父の色んな事を教えてくれた。
 父は日本人で、母が勤める会社の偉い人である事。彼は普段、日本で生活をしている事。二人は正式な夫婦じゃないから、俺と父は血の繋がりはあるけど、日本の法律では親子として認められていない……それでも、彼は俺を「息子だ」と認めてくれたから、父と一緒に日本に行く様に……と、そう静かな声で諭してくれた。
 「ジェイが邪魔になったんじゃない。あんな所で、貴方を死なせたくないから」と語る母の顔を見詰めながら、俺を最後に襲った男に対する復讐心が、跡形もなく消えていくのを感じていた。


 今にも泣き出しそうに顔を歪めながら、静かに話し続ける母の姿に、自分の行動がどれだけの心配をかけてしまっていたのか、その事にようやく気付いた。
 あれだけ「スラムには行くな」と叱られていたのに、それに耳を貸す事なく、死にそうになる寸前の怪我を負ってもまだ、俺はあの街に向おうとしていた。そんな俺が幾ら「もう行かないから」と懇願しても、それはきっと信用して貰えないと思う。
 そうさせてしまったのは自分自身であったし、もし本当にスラムに行く事を止めたとしても、その空白を何に使えば良いのか。今でもそれが分からずにいた。
 穏やかな祖母に大切に育てられ、時々しか顔を合わせる事のなかった母にも優しくされて、皆に少し、甘え過ぎていたのかもしれない。
 こんなに心配をかけてしまった母が、それで安心してくれるのなら……と、父が暮らす日本に行く事を勧める母の言葉に、ベッドに伏せったまま涙を堪え、静かに頷いていた。






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