Eros act-2 17

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 一稀が入院して最初の数日間は、やはり少しだけ恐怖感が残っていたらしい。
 言葉上は「もう平気」と言いながらも、治療に来た看護師がドアをノックする音にまで無意識にビクリと身体を震わせてしまう一稀を見て、ジェイも少し予定を延ばし、週が変わっても昼間の仕事を極力抑え、彼に付き添ってあげていた。


 そうして一週間が過ぎた頃、ようやく彼も少し落ち着きを取り戻してくれた。
 身体の方も随分と良くなってきたし、それ以上に、ジェイが四六時中、片時も離れずに傍にいたから精神的にも安心した……と言うのが大きいと思う。
 一稀の様子を見ながら、少しずつ病室を離れる時間を増やしていたジェイも、そろそろ色んな用件が溜まりつつあった。
 店に顔を出さないのは良いとしても、彼が本来動かしている仕事の方は、そう長時間放置しておく訳にもいかない。皆が見舞いに来たり看護師の出入りもある時間帯を利用して、ジェイの方も仕事に向かう様になり、徐々に日常を取り戻していた。






「……お前、案外器用だな。そういう事も出来るのか」
 いつもと同じ時間に一稀の病室に向かうと、ベッド脇の椅子に腰を下ろしたジェイが林檎の皮を剥いていた。
 小さなナイフを慣れた手付きで動かす姿に驚きつつ、そう声をかけてみると、ジェイは楽しそうに口元を緩めた。
「まぁな。ナイフの扱いは慣れている。コレ位、どうって事ねぇよ」
「……ジェイの『慣れている』は、違う意味に聞こえるな。どっちにしても料理で覚えたんじゃないだろう」
 上機嫌なジェイにそう答え、持ってくる様に頼まれていた物を机に置いた。その間に林檎を小さく切り分けていた彼は、ベッドの上で身体を起こしている一稀の口元に、一つずつ運び始めた。


 口内の傷が治り、頬の腫れも引いてきた一稀は、ようやく、ある程度の大きさの物なら食べられる様になってきたらしい。
 「口、開けにくいなぁ」と頬を覆うガーゼにブツブツと文句を言いつつ、美味しそうに食べる一稀と、彼のペースに合わせて、少しずつ林檎を食べさせてやってるジェイの姿をぼんやりと眺めていると、ふと、彼の父親の事を思い出した。


「ジェイ、お前の親父さんから連絡入ったか?」
「いや。何かあったのか?」
「やはり連絡無し、か。此処に入院してくるそうだ。確か、今日の午前中だった筈だから、もう来てるんじゃないか」
 先週末に自分の父親から仕入れていた情報を教えてやると、ジェイは不満気に顔を顰めた。
「何も聞いてねぇな。少し様子を見てくる」
 一稀に林檎を食べさせ終わったジェイは、そう呟いて立ち上がると、ナイフや食器を片付け始めた。その後を追って洗物を引き受けながら、相変らず素っ気ない親子の様子に、含み笑いを堪えていた。






 「直ぐに戻ってくる」と言いながら、頬に軽いキスを残して出て行くジェイを見送った後、食器を片付けてくれている中川の方に視線を向ける。
 ジェイも慌ててる様子は無かったけど、やっぱり少し気になってしまって、中川が戻ってくるのを見計らって声をかけた。


「中川さん。ジェイのお父さんって、また具合が悪くなったとか?」
「いや、検査入院みたいなモンだろう。二、三日で退院するそうだ」
「そうなんだ……俺もお見舞いに行った方が良いかな? 話とかした事ないけど、俺、ジェイと一緒に暮らしてるしさ」
「ばか、お前が見舞いに来て貰う方だろう。どう考えたって、一稀の方が病人だからな。そんな身体で見舞いに来られちゃ、ジェイの親父も驚く。お前と話がしたいと思ったら、向こうの方からやって来るだろう。気にするな」
 そう言って椅子に座る中川を見詰めながら、ほんの少し考え込んだ。
「……そうかなぁ? 入院してるの分かってるのに、挨拶にも来ない、って思われないかな?」
「大丈夫だ。心配なら俺が後で寄った時に言っておこう……そうだ、ティコに雑誌を頼んでただろう。預かってきたぞ」
 バッグから取り出された雑誌を受け取りつつ、また彼の顔をジッと見詰めた。


「ありがと。ティコ、元気でやってる?」
「あぁ、元気だ。毎日、メールをやり取りしてるんじゃないのか?」
「メールはしょっちゅうきてるけど。でも、まだ一度も顔を見てないからさ。ホントに元気かなぁ……って」
 とりあえずそう答えながら、ティコから日々送られてくるメールの内容を思い返す。
 確かにメールは毎日きているし、その内容もお店の事や、コッチの具合を尋ねる内容だったりと、ティコは元気で過ごしてるんだろうな、ってのは伝わってくる。
 でも、ずっとメールだけのやり取りばかりで、入院して一週間が過ぎたのに、まだティコがお見舞いに来てくれた事はなかった。


 入院した俺の代わりに、いきなり裏方の仕事に入ったから、まだ慣れなくて忙しいんだろうな……とは思っている。でも中川は毎日来てるし、他の皆も次々にお見舞いに来てくれるのに、一番仲が良いティコが一度も顔を見せに来ないのは何でだろう? って、ちょっとだけ不思議に思っていた。


「その事か。ティコの見舞いなら、俺が『もう少し、時間が経ってからにしろ』と止めている。ティコは翌日にも、見舞いに行きたそうにしてたんだが」
「あ、そうなんだ。何で?」
「一稀の状態が、ある程度は落ち着いてからの方が良いだろうと思ってな。その身体で伏せってるのを見れば、アイツの事だから、また『自分がマンションまで送っていれば』とか言い出しかねない。ティコは、一稀が『冷たいヤツだ』って怒ってるんじゃないか? と気にしてるが、皆も同じ考えみたいで『今は止めとけ』って止めている」
「あ……確かにそうかも。ティコ、自分を責めるタイプだから。こんなの見たら、マジでビックリするよな」
 中川の説明に納得しつつ、起き上がっているベッドの上でパジャマの裾を捲り上げて、痛んでいた脛の辺りを確認してみた。




 アチコチ蹴られて、翌日は立ち上がるのもやっとだった全身の痛みは、もうかなり良くなってきている。病室内を歩く位なら平気になってきたし、その場所を押さえない限りは、強い痛みが起こる事も無くなってはいたものの、その代わりにアザが酷くなってきた。
 擦り傷はほとんど治りつつあるし、打撲の腫れも引いてきている。自分自身では、毎日少しずつ良くなってきた実感があるけど、パッと見た感じでは、今が一番酷いかもしれない。
 自分で見てもビックリだもんな……と思いながら、顔を顰めてアチコチに残る青い内出血の痕を眺めていると、中川が手を伸ばしてきて、頬のガーゼをチラリと捲ってきた。


「腫れの方は、かなり良くなってきたな。後はアザだけか……」
「そんな感じかな。もう口を動かしてもあんまり痛くないけど、見た目が凄いよな。今度は暖めた方が良いって言われたし、自分でも気持ち悪いからさ。まだガーゼを貼ってるんだけど」
「確かにな。だが、お前は治りが早い方だな。来週辺りには薄くなっていると思う。その辺りになったら、ティコを呼ぶとするか」
 そう答えて携帯を取り出し、カレンダーを確認する中川を眺めていると、ふと、最近のジェイと中川との会話を思い出した。


「そういえばさ。最近気付いたんだけど、中川さんって仕事の話をする時、ジェイに敬語を使わなくなったよな。何で?」
「何で……と聞かれても、上手い答えは無いな。一稀につられて…と言うのもあるし。まぁ、状況の変化が一番大きいだろうな」
「そう? 何か変わったかなぁ?」
「ジェイが昼間の仕事に集中し始めた、って事だ。以前はジェイも店の経営に深く携わっていたが、今はほとんど俺一人で決めている。アイツと話す時は、相談事って感じになってきたから、自然とそうなってきたな。元々、俺も結構無理して使っていたし、ジェイは初めから嫌がっていたからな。アイツは今の方が良いと思ってるんじゃないか」
 楽しそうに答える中川の様子に、結構真剣に考えて頷いた。
「その方が良いと思うな。どっちにしても、ジェイも夜しか来れないしさ。もう、中川さんのお店、って感じだろ?」
「俺の店……か。ジェイがオーナーである事に変わりはないが、アイツも他に仕事があるからな。いつまでもジェイに負担をかける訳にもいかない。店の方は、俺が主体になってやるべきだろう」
「あのさ、ティコも手伝ってくれるんじゃね? 俺と違ってちゃんと学校も行ってたし、頭も良いからさ。俺も怪我が治ったら、また頑張って仕事するけど。ティコもこのまま、俺と一緒に裏方の仕事の方が良いな」
 ちょっと余計なお世話かな? とは思いつつ、そう言ってみると、ちょっと驚いた表情を浮かべていた中川が、楽しそうに笑い出した。


「そうか。ティコは、何てメールしてきてるんだ?」
「嫌じゃないみたいだぜ。楽しそうにしてるし、『裏方の仕事って、結構忙しいんだな』とか」
「なるほど。他は?」
「俺が退院する頃と、翔の引退が一緒位になりそうだから、『まとめてパーティする?』とかかなぁ。お店の話が多いかも」
「店の話題か。まぁ来週にでも、俺の代わりに見舞いに行く様に言っておく。その時に、ティコに色々と聞けばいい。メールじゃ書きにくい事もあるだろうからな」
 そう答えてくれる中川に頷き、買ってきて貰った雑誌をパラパラと捲ってみる。まだ暫くの間、此処に入院する事になりそうだから、また何か頼まなきゃ……と考えながら、ティコと最後に話した時の事を思い返した。


 ティコはメールに自分の事を沢山書くタイプじゃないから、あまり詳しい事は分からない。でも、『あのラーメンを店長と食べに行った』とか書いてたから、きっと仲良くやってるんだろうなぁとは思っている。
 ティコがお見舞いに来てくれたら、本当に色々と聞きたい事があるな……と思いながら、またベッドに潜り込んで、戻ってきたジェイと話し始めた二人の声にぼんやりと耳を傾けていた。






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