Eros act-2 15

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 ようやく寝入ってくれた一稀の手を握ったまま、もう片方の手で頭を軽く撫で続ける。
 普段と変わらない穏やかな寝息を立てているのに、それでも握り締めた手にギュッと力が入ったままの彼の姿に、胸の奥がチクリと痛んだ。


 こんな怪我をしたのは初めてだと言っていたから、少し気が弱っているのかもしれない。
 普段は意地っ張りで強気な態度ばかりの一稀なのに、いつになく素直な雰囲気で甘えてくるのを見ていると、彼に襲われた時の状況を問いかけるのは、まだ早いだろうと、そう感じていた。
 その場では気が昂っているから、状況を冷静に判断しようなどと考える余裕はない。
 負った傷の手当を受け、頭の芯が冷えた頃になってようやく、色んな事に想像が巡り始める。その瞬間を思い返して「もし、一歩間違っていれば……」と肝を冷やしてゾッとするであろう事は、自分が嫌という位に体験してきたから、もう充分に分かっていた。


 それが日常に在る環境に身を置いていれば、逆に闘争本能を駆り立てる要因にもなる。遠い昔の一時期、自分はそうやって生きていた。
 でも、一稀はあんな生き方をしていないし、彼にそうして欲しくもない。
 あやうく命を落としそうになっていた俺の姿を見詰めながら、少し哀しそうな表情を浮かべ、『父親のいる、日本に……』と、そう呟いた母親の気持ちが、今になって本当に理解出来た気がした。


 一稀の顔中至る所にある小さな擦り傷と、左頬に当てられた大きなガーゼが、妙に痛々しく眸に映る。
 あの人もこんな気分で俺を見詰めていたんだろうか……? と、一稀の腕に巻かれている白い包帯を見詰めながら、そんな事を漠然と考え続けていた。






 軽くドアを叩く音が聞こえ、自分がぼんやりと考え事をしていた事に気付く。何気なく視線を向けた壁時計を見て、もう軽く1時間以上が過ぎている事に驚きながら、勝手に開いたドアの方に視線を向けた。
「やっぱ寝てたか。静かに入ってきて良かったな」
「そうだな。コッチが呆れる位に動き回ってたからな。少し疲れたんだろう」
「あぁ、なるほど。その方が一稀らしいけど。大人しく寝てる様なヤツじゃねぇし」
 軽い口調で答えながらも、ホッとした表情を浮かべる三上の背後から、やけに緊張した面持ちの拓実が、周囲をキョロキョロと眺めながら入ってくる。その様子が面白過ぎて、思わずククッと声を殺して笑ってしまった。


「拓実、珍しいモンでもあるのか?」
「あ……いや、マジですげぇな……ってさ。ホントに病院なんだよな?」
「まぁ、少し特殊な部類だろうが。中身は普通だ。深く気にしなくてもいい」
 病院の個室に入るのは初めてなのか、物珍しそうに部屋中を覗きまわっている拓実に声をかけていると、一稀の寝ているベッドより、少し低い簡易ベッドの端に腰を下ろした三上が、眠っている姿を覗き込んできた。


「……本当に袋叩き、って感じだな。大丈夫なのか?」
「あぁ、打撲は酷いがな。ある程度は手加減されていた様だし、むしろ外観的にダメージを与えたかったんだろう。見える部分の傷は酷いが、腹部への蹴りは案外受けていないそうだ」
「そうか。やっぱり、見せしめの為に……って感じか。それよりジェイ、一稀が寝ている間中、ずっとそうやってるのか?」
 眠っている一稀と握り合っている手を眺め、少々呆れた様子で問いかけてきた三上に、軽く口元を緩めて頷いてやった。
「まぁな。まだ少し怯えているみたいだな。眠る前に襲われた時の状況を少し問いかけたんだが……それで色々と思い出したんだろう。聞くのが早過ぎた様だ。一稀は気付いてなかった様だが、改めて聞いてみると、やはり待ち伏せをされていたらしい。俺も気付いてなかったが、少なくとも数日前からコイツが一人きりになる機会を狙っていたんだろう」
 また手を伸ばして寝乱れた髪を直してやりつつ、一稀を起こさぬ様、小声で答えた。


 こんなに間近で話をしても目覚めぬ程に熟睡しているのに、それでも尚、無意識に手を握り締めてくる一稀は、本当に怖がっているんだと思う。
 彼のこんな姿を見た事ないから、だから余計に、離そうとしない手の力加減が、そのまま胸の奥に響いてきた。




「そうか……まぁ、そう思うのが当然だろうな。自分が知らない間に後をつけられ、行動を見張られていた……なんて、気持ちの良いモンじゃねぇし。不気味だからな」
「だろうな。しかも袋叩きにされれば、余計にそう思うだろう。こんな怪我をしたのも初めてだと言っていたし、気が弱るのも当たり前だ」
「怪我の程度より、心理的な部分の方が問題だな。ジェイ、コイツが寝ている間に少し話そう。喫茶室にでも行くか?」
「……ココではダメな話なのか? 今、一稀を一人にするのは気が引ける」
「止めておいた方が良いだろうな。中川から、一稀を見つけた時の状況を聞いてきた。来るまでは一稀も一緒に……と思ってたんだが、こんな状態ならコイツ抜きで話をした方が良さそうだ」
 そう誘ってくる三上の言葉に、一瞬答えるのを躊躇ってしまう。無意識に一稀の方に視線を向けると、病室内を歩き回っていた拓実が近寄ってきて、簡易ベッドの上に腰掛けてきた。


「一稀なら大丈夫。俺が残って見といてやっから。途中で起きたら話相手しとくし、心配ねぇよ」
「そうか……もし起きたら『直ぐに戻る』と言ってくれ」
 和やかな笑顔の拓実にそう告げ、握っていた一稀の手を離すと、触れていた温もりが無くなった一稀の指先が、それを追い求める様に微かに動いた。
 その手を自分の代わりに握ってやる拓実の姿を眺めた後、立ち上がってドアに向かう三上を追って、ほんの少し迷いを残しつつ、静かに病室を後にした。






*****






 特に迷う様子もなく、平然と前を歩く三上の様子に、彼の隣に並んでその横顔にチラリと視線を向けた。
「……お前、此処に来た事があるのか? 通い慣れている様に見えるが」
「まぁ、時々。俺、この形態になる以前の、この病院で産まれたらしいぜ。一応、俺んちの親は大物俳優ってヤツだ……って話しただろ? 前にも親父が撮影中に怪我して、此処に入院してた事があるんだよな。久しぶりに来たけど、当時とあまり変わってねぇな」
「あぁ、そうだったな。忘れていた」
 答えてくれた三上の言葉に納得して、辿り着いた喫茶室に入っていく。


 芸能人なんてほとんど興味の無い自分でも、芸名を聞いただけで何となく顔が分かる位に有名な三上の両親は、いわゆる『偽装結婚』と言うヤツで、夫婦としての実態はないらしい。ゲイとレズである夫婦の間に医療の手を借りて産まれた彼は、特に気にする様子もなく極自然にそれを受け止めていて、以前、ふとした弾みで、それを教えてくれた事があった。
 彼自身もゲイだから事情を理解しているし、両親も、互いに愛情はなくとも友情として仲は良いらしく、彼曰く「むしろ、普通の家族より上手く行ってるんじゃないか?」という状態が今でも順調に続いている。
 ゲイを公言している息子を隠れ蓑に、彼と連れ立って店に遊びに来た父親の姿を眺めながら、何だか不思議な親子だな……と、そう思った事を思い出した。




「俺は逆に、ジェイが此処に出入りしてるのに驚いたけどな。いくら金を持ってても、売り専クラブのオーナーごときが出入りする様な病院じゃねぇし。お前も親絡みか?」
 煙草に火をつけながら問いかけてきた三上に、ポケットを漁りながら頷いた。
「そうだ。だが、俺の親父は一般人だがな。まぁ、多少の金を持ってるヤツ……ってトコだな」
「なるほど。でも、多少じゃねぇだろ? 普通の会社役員なんかが利用出来る病院じゃねぇし。ジェイは只者じゃねぇな、とは思ってたけど」
「俺は日本に来る事が決まって、その時に初めて父親の事を知った。母親は正妻じゃないし、今でも親父以外とは、深い付き合いはねぇよ。日本国籍を取得する為に親父が俺を認知したから、一応、あの一族の一員になってるらしいがな。日本の法律は複雑過ぎて、俺はその辺りの事情を完璧には理解出来ていない」
「一族かよ……お前、何かすげぇ人生送ってんだな。母親はやっぱ外人なんだ?」
「アメリカにいる。親父が向こうで仕事をする時、秘書の立場になるらしいな。今でもそうらしいし、その辺りは割り切っているんだろう。俺の名字は『東郷』だ」
 取り出した煙草に火をつけながら教えてやると、三上は楽しそうに笑い出した。


「ばか、多少の金持ちじゃねぇだろ? その名前なら俺でも知ってる。まぁ、色々分かる気もするな。いきなりそんな所に放り込まれたら、そりゃあ、家族にもならねぇよな」
「まぁな。母親は仕事第一だから、俺は祖母に育てられた。ガキの頃は極普通の生活を送っていたから、日本に連れてこられた時は本当に驚いた。結局、あの家には馴染めず、中川の所に入り浸っていた」
「へぇ。アイツとは、その頃からの知り合いなんだ?」
「そうだな。親父同士が仲が良い……まぁ、俺の話はどうでもいい。一稀の件だが」


 頼んでいた飲物が運ばれてきたのを見計らって、そう三上に問いかけると、喉を潤した彼は静かにカップをテーブルに戻した。


「……ジェイ、『タカ』って呼ばれてた奴を覚えてるか? 金を持ち逃げして飛んだヤツだ。一稀を襲ったのはアイツらしいな」
「覚えている。戻ってきたのか?」
「一稀が中川にそう言ったらしいから、それは間違いないだろう。つい最近じゃねぇのか? タカを覚えている店の連中に聞いたが、誰も見かけていないし、俺も見た記憶はない」
「俺も見かけてねぇな。金を持ち逃げされた店長が、今でもアイツを探している。アレで店が潰れた様なモンだからな。『見つけたら教えろ』と、方々に言って廻ってるから、その辺りをウロウロしてれば誰かが気付く筈だ。戻ってきて間もないか、人目を避けているんだろう。だが、一稀を襲ったのは一人じゃない筈だ。一稀が『アイツ等』と口走っていた……」
「あの馬鹿と他に2人の、3人で袋叩きにして行ったそうだ。中川が一稀から聞いたのは、人数とタカの名前だけで、残りの2人が誰かは聞いていない。只、一稀を襲った理由が全く分からない。一稀本人も『分からない』と言ってたらしいし、拓実も『一稀とアイツとは接点が無いと思う』と言っている。タカはあちこちでトラブルを起こしていたが、その中に一稀が……って話は、俺も聞いた事がねぇな。それにアイツも、自分が追われている事くらいは分かっているだろう。もし一稀に何か恨みを持っていたとしても、それだけで戻って来て……とは考え難い」
 そう静かに話す三上の声を、無言で聞いた。




 確かに三上が言う通り、一稀を襲撃する目的だけでこの街に戻って来たとは考え難い。金を奪って逃走した自分が発見されれば、一体どんな目にあうのか?……いくら何でも、それ位は容易に推測出来ると思う。
 だからこそ、それっきり姿を見せなくなったタカが戻って来て、特に接点の無い一稀を襲う理由があるとすれば。
 そう考えると、答えは1つしかなかった。




「……買われたんだろう。幾ら貰ったのかは知らねぇが、端金でも今のアイツにとっては大金だろうからな」
「やっぱり、ジェイもそう思うか?」
「他に理由が見当たらない。一稀を襲って、成功すれば幾らか……そんな所だろう。一稀に恨みを持っているのは、タカではなく他の奴だ――――いや。恨まれているのは、俺の可能性もあるが」
 三上に答えた自分の言葉に、窓から見える景色を睨みながら考え込む。


 店に入る事なく、街角で気侭に客を引いていた一稀に反感を持っているヤツは、多少なりとも存在しているだろう。それなら見当を付ける事も可能だろうけど、もし、その相手が一稀ではなく、自分に対してであれば……そう考えると、一稀は単純に見せしめとして襲われたに過ぎない。
 タカを利用しているから、あの街の誰かが裏にいる事は想像がつく。上客を根こそぎ持っていき、急激に巨大化したクラブ『J』に敵意を持つ該当者は山程いる。
 只、それが確かかどうかは分からないし、それが正解だったとしても、「店」に対してなのか「オーナー個人」に対してなのか。それがまだ、判断のしようがなかった。




「……とりあえず、お前もしばらく此処にいた方が良い。少なくとも一稀が退院するまでは、店に顔を出さない方が懸命だろうな」
 同じ可能性に行き着いたのか、そう呟く三上の言葉に、溜息を吐きながら頷いた。
「そうだな。一稀も普通の状態に戻るまで、もう少し時間がかかるだろうし、怪我自体の回復も数週間はかかる。その間は、此処に篭っていた方が安心だろうな」
「その方がいい。此処は刑務所並みに警備が整っているからな。お前も、何かの拍子にタカに出くわしてしまったら、絶対に頭に血が上るだろうからな」
 微妙な苛立ちを感じたのか、わざと茶化した口調でそう告げてきた三上に、思わず苦笑を返してしまった。


 彼に言われた通り、もし偶然タカに遭遇したとしたら、その場で自分を抑える自信はない。そうなれば、タカを裏で操る誰かの望み通りの結果になるだろうし、そんな馬鹿な真似はしたくもなかった。
 もしかして、それが狙いなのか……? と考えると、暗澹たる思いを感じる。
 一稀が絡んだ途端、我を忘れそうになる自分に自嘲しながら、中川が発見した時の一稀の様子を、三上から聞きだしていった。






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