Eros act-2 11

Text size 




 処置室の扉が開いた瞬間、隣で長椅子に腰掛けていたジェイが無言で立ち上がった。
 運ばれる一稀の方に視線を向けるジェイの、チラリと見えた横顔には安堵の色が浮かんでいて、それにホッと胸を撫で下ろしながら彼の後を追った。


 病院の裏口で待ち構えていたストレッチャーに一稀を寝かせた時も、そして、彼が処置室に運び込まれて治療を受けている間も、ジェイはずっと表情を無くしたままだった。
 一稀が消えた処置室の扉を無言で見詰め続けるジェイに、結局、声をかける事すら出来なかった。
 身体中の至る所を包帯で巻かれ、丁寧に手当てを受けて運ばれて行く一稀に寄り添って歩くジェイは、ようやく自分を取り戻してくれたらしい。
 普段の覇気には程遠いものの、治療を施してくれた医師に一稀の状態を問いかけるジェイと共に、病室にへと向かって行った。






 ベッドサイドの明かりだけが灯る薄暗い病室の中、治療の為にかけた麻酔と、その後に点滴で入れてくれた鎮痛剤が効いているのか、一稀が目覚める気配はない。
 痛みに呻く様子もなく、すうすうと穏やかな寝息を立てる一稀の様子を横目で眺めながら、ベッドの端に腰を下ろし、彼の手を握っているジェイの傍に、椅子を持ってきて座った。


「今の所は落ち着いてる様だな。今夜はもう、大丈夫だろう」
「あぁ、そうだな。骨折程度で済んで良かった」
 そっと小声で問いかけてみると、一稀の方に視線を向けたまま、ジェイも小声で答えてくれた。
 虚ろな気配も大分薄れ、割としっかりした雰囲気に変わってきた彼の様子に、ようやくコッチの気分も落ち着いてくる。ああいうジェイの姿を見るとは思わなかったな……と、予想以上の軽症で済んだ一稀の容態に安堵した気分も重なり、少しだけ普段の気安さに戻ってきた。


「一稀の容態が落ち着くまでは、店の方は顔を出さなくても大丈夫だ。昼間の仕事も、しばらく休んだ方が良いと思うが。お前も一稀の具合が気になるだろう?」
「そうだな……とりあえず、急ぎの予定は入ってなかったと思う」
「明日の午前中にでも、お前の親父に連絡を入れておく。『可能なら今週は休みにしたい』と、それで良いか? 何日間かは、一稀も介護が必要だろうからな」
「あぁ、それでいい。急用があれば出向くと、そう伝えてくれ」
「分かった。店を開ける前に簡単な手荷物を持ってきてやる。他に必要な物があれば、その時にでも言ってくれ」
 そうジェイに答え、出来るだけ静かに椅子から立ち上がった。




 普段のジェイの口調より、少しゆっくりとした速度で答えてくれる彼は、まだ完全には思考が戻ってきていないのかもしれない。それでも、一稀が目覚めて少し話をすれば、それなりに落ち着いてくれるだろうとは思う。
 一稀が襲われる事があるかもしれないと、その危機は感じていたけど、まさかこの方面になるとは思ってなかった。ジェイのモノになった一稀に対しては、きっと強姦などの手段に出てくるだろうと、多分、ジェイもそう考えていた。


 ずっと一稀の指先を握り締めたままのジェイは、彼を襲った奴等の事を問いかけてこようとしない。
 明日の朝、目覚めた一稀に直接問いかけるつもりなんだろうか……? と、纏まらない頭で考えながら、静かに病室を後にした。






 パタンと微かな音を立ててドアを閉め、姿を消した中川の遠ざかって行く足音を聞きながら、彼が残していった椅子を引き寄せて腰を下ろし、また一稀の手を握り締める。
 中川が問いかけていった通り、考えなければいけない事は山の様にある筈なのに、未だにぼんやりとしているだけで、何も頭に浮かんではこなかった。




 部屋にいなかった一稀の携帯を鳴らし、代わりに出た中川から一稀の身に起こった事を告げられた時から、自分は少し、おかしくなっていたのかもしれない。傷だらけの一稀を抱き起こし、少しだけ交わした会話はハッキリと覚えているのに、その他の出来事については、あまり記憶に残っていない。
 どうして一稀が怪我を負って倒れていたのか、それが今でも、よく理解出来ずにいる。
 腫れあがった頬に笑みを浮かべ、安心した様子で気を失ってしまった一稀を抱き締めたまま、只、呆然とその姿を見詰めていた。


 無理矢理囲い込んだも同然の彼と、まだ互いの気持ちを探り合っていた頃、一稀がポツリと「腕の中で死にたい」と、そう洩らした言葉が蘇ってきた瞬間、頭の中から一切の思考が消えた。
 この程度の怪我で、一稀がいなくなる訳がないと分かっているのに、「その方が暖かいから」と言っていた一稀の言葉通り、ぐったりと力の抜けた傷だらけの彼を夢中で抱き締めたまま、もうどうする事も出来なかった。
 誰が一稀を襲ったのか、明日の仕事や、その他にも……考えなければならない事は沢山あると分かっているのに、時折浮かんでくるそれらは直ぐに消えてしまって、思考として残らずにいる。
 浮かんでは消えるそれを、深く考えようとする気には、今はどうしてもなれずにいた。


 一稀の全てを手に入れたいと望んだ願いは、自分の全てを彼に預け、それで叶った事なのかも知れない。
 何もかもを捨てて飛び込んできた一稀を抱き締めた時から、腕の中の一稀に自分も同じ様に、全てを彼に明け渡していた。






 雲で蔭っていた月明かりが戻ってきて、目の端で何かがキラリと光った。
 ベッド脇のサイドテーブルに置かれている、見慣れたブレスレットと指輪を眺めながら、少し口元を緩めて微笑み、ギプスで覆われた一稀の左腕に視線を向けた。
 倒れている一稀を発見したのが中川であったのは、本当に不幸中の幸いだったと思う。冷静に必要な処置を施し、呆然としているだけの自分に代わって全ての手配をやってくれた彼に、今は素直に感謝の気持ちを感じていた。


 もし、一稀が他の者に助けられて、普通の救急病院に運ばれていたとしたら。自分は今でもきっと混乱したままで、何が何だか理解出来なかったと思う。
 一稀も早めに手当を受けられて良かった……と、それだけを思いながら、椅子から立ち上がって端に戻し、付き添い用の簡易ベッドを引っ張ってきて、一稀の寝ているベッドに並べた。
 少し広くなったベッドに座り、眠っている一稀の方に、また手を伸ばして髪を撫でる。それに気付く様子もなく、穏やかな寝息を続ける彼の姿に安心しながら、そっと布団を掛け直してやった。
 今はまだ何も考えられないでいるけど、その方が良いのかもしれない。
 擦り傷だけで済んだ右の頬に軽いキスを落として、ベッドに横たわって、また彼の右手を握り締める。普段通りの暖かな指先を弄りながら、少しだけ気持ちが落ち着いていくのを感じた。


「……早く治れ、一稀。おやすみのキスも出来ないじゃねぇか……」
 そう愚痴りながら少しだけ身を起こして、まだ微かに血の滲んだ痕の残る一稀の唇に、そっと触れるだけのキスを残した。


 傷だらけになってしまったけど、明日の朝になって目覚めた一稀は、いつもと同じ様に、明るい声で色んな話をしてくれる。
 只、それだけを自分の胸に言い聞かせながら、一稀の方に身体を向け、擦り傷の残る手を握ったまま、そっと眸を閉じて眠りについた。






*****






 深夜に呼び出してしまい、一稀を病院まで車で運んでくれた実家暮らしの兄には帰って貰っていたから、タクシーでマンションまで戻ってきた。
 車を降りて入り口の方に視線を向けた瞬間、ガラス扉の脇に座り込んで、膝を抱えて俯いている姿を見つけて、ほんの少し顔を顰めた。


「……ティコ?」
 小声でそう問いかけてみると、顔を上げた彼は勢い良く立ち上り、慌てた様子で走り寄ってきた。
「店長、一稀が襲われたかもしれない! 部屋にもいないし、携帯も電源が切れてるんだ。皆も探してくれてるんだけど、何処にいるか分かんなくて……探しにいかなきゃ!」
 駆け寄って来るなり腕にしがみつき、必死の形相で言い募るティコの姿を、息を呑んでジッと見詰めた。
「おいティコ、少し落ち着け! お前、一稀が襲われているのを目撃したのか?」
「違う。多分、その後なんだ。皆に買い物を頼まれたから、コンビニに寄って別荘に行ったんだ。その帰り道に俺を追い越して行った全然見た事ねぇ奴等が、笑いながら一稀をボコボコにしたって話をしてて……だから心配になって此処に来たのに、誰もいなくて。別荘にいた皆も探してくれてるんだけど、まだ一稀が……」
 かなり混乱しているらしく、泣き出しそうに顔を歪めてそう話すティコの様子に、胸の中で舌を鳴らした。
 タカが逃亡した後にこの街にやってきたティコの事を、多分、奴等は知らなかったんだろう。選りによって、直前まで一稀と行動を共にしていたティコが、それを直接聞いてしまうとは……と憂いながら、錯乱する彼を落ち着かせようと、彼の肩に手をかけ強く握り締めた。


「大丈夫だ、ティコ。一稀が倒れてるのを俺が見つけて、もう病院に運んだ。今はジェイが付き添っている」
「え? 店長が……じゃあ、一稀はやっぱり……」
「そうだ。でも、そう大した怪我じゃない。心配するな。かなりの打撲と骨折はあるけど、命に係わったり後遺症が残る様な重傷じゃない。直ぐに良くなる」
「……ホントに……?」
「本当だ。もう心配はない。とりあえず中に入ろう」
 呆然としているティコの肩を抱き寄せ、マンションの中にへと入っていく。


 ティコがどの位、あの場所に座り込んで待っていたのか分からないけど、きっと心細かったんだと思う。ギュッと服を握り締めてくるティコの身体を支えながら、一稀を探している者達の名前を聞き出し、エレベーターを待ちながらゴソゴソとポケットを漁った。
「……電話をかけてきていたのか?」
「うん。店長も……何処にいるのか、全然分からなくて……」
「そうだな、悪かった。一稀の治療の邪魔になるといけないから、着信音を切っていた。多分、その時だろう」
 何件かの『不在』で残るティコが携帯を鳴らした履歴を見詰めて謝りながら、彼の肩を抱いたまま、まだ一稀を探してくれている拓実の携帯に電話をかける。
 直ぐに出てくれた拓実に、病院に運んだ一稀の容態を告げ、他の皆への連絡と明日の開店準備を頼みながら、玄関の鍵を開けると、ティコと一緒に部屋の中にへと入って行った。






BACK | TOP | NEXT


2009/1/19  yuuki yasuhara  All rights reserved.