Eros act-2 10

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 ようやく気が済んだのか、ゲラゲラと笑いながら奴等がそのまま立ち去っていく。去り際に何か言葉を吐き捨てていった気がするけど、全身を覆う激痛に気を取られて、もう何も耳に残らなかった。




「………っくしょ、…ざけんな……」
 腹立ち紛れに呟きながら、立ち上がろうと思うのに、身体が全然ついてこない。こうくると予想してれば、せめて一発だけでも殴り返してやれたのに…って、そんな事ばかりが頭の中に浮かんでくる。


 袋叩きにしただけで、所持金を探る事なく去って行った奴等は、多分、最初からコッチが目的だったんだろうと思う。
 何でほとんど言葉を交わしたこともない、顔を知ってる程度のタカに袋叩きにされたのか全然意味がわからないけど、それより今は、少しでも表通りに近付く事の方が先だった。
 こんな人気の無い、真夜中の路地裏で倒れていても、誰も気付いてくれる筈がない。
 必死になって痛む身体を捩らせ、表通りの方に身体を向けた所で、微かに聞き慣れた足音が聞こえてきた。


「……なかが、わ……さ…」


 表通りまで距離があるから、精一杯の大声で呼びかけた途端、口の中に溜まっていた血にむせて咳き込んでしまった。
 もう大声は出せそうにないから、何とか気付いてくれ…と願いながら、咳き込んた瞬間、激痛が走った腹の辺りを押さえ、乱れる息を取り戻そうと必死で浅い呼吸を繰り返していた。






 朝食代わりに食べるパンを買い忘れていた事に気付いて、ジェイとマンションの前で別れてコンビニに行く事にした。
 もう目前に見えているコンビニに向かって歩いていると、不意に名前を呼ばれた気がして足を止めた。


 それに続いて聞こえてくる、苦しげな呻き声にピンと勘が働き、薄暗い路地裏の奥に視線を向ける。
 独特の少し湿った音の混じる咳き込みは、きっと近付いてきた足音に助けを呼びかけた時、血を吸い込んでしまったんだろう。
 また酔っ払いの喧嘩でもあったのか…? と、確かに人の気配はある暗闇に目を凝らす。
 背後を通り過ぎた車のヘッドライトで、うつ伏せに倒れている男の手首に巻かれた、見慣れた銀色のブレスレットがキラリと光を反射した瞬間、背筋にゾクリと震えが走った。




「―――― 一稀!? 一稀か?」


 大声で呼びかけながら、倒れたままの一稀の元に走り寄る。
 抱きかかえようと身体に触れた瞬間、呻き声を上げた一稀は、それでも少し安心した様子で、殴られて痛々しく腫れた頬を微かに緩めた。


「おい、相手は1人じゃないだろう。何人にやられた?」
「…3人……、手加減しとけとか…バカにしやがって……」
 よほど腹を立てているのか、道路に倒れたまま罵り声を上げる一稀の傍に跪いて、どうやら一方的な袋叩きにあったらしい彼の具合を、ざっと目を通して確認していく。
 妙な部分が腫れてきている左手に顔を顰めながら、スナックの前に飾られているプランターから挿し木を引き抜き、一稀の腰にぶら下がっていたバンダナを引き裂いて、手首に沿わせて掌が動かない様に縛り付けた。


「……いてぇ…」
「少し我慢しろ。多分、手首に近い所が折れている。今は手先が動かない様に固定した方が痛みも少ない」
「…まじ? 折れてる…?」
「大した怪我じゃない。すぐに治る。腕の骨は二本あるからな、これは片方だけだろう。変に痛めてしまうより、ポッキリ折れた方が治りも早い。1ヶ月もすれば元に戻るから大丈夫だ」
 そう答えてやりながら手首のブレスレットに指を伸ばすと、一稀は少し不満気に顔を顰めた。それを無視してそっとブレスレットを外し、「ジェイに買って貰った」と喜んでいた指輪を引き抜こうとすると、それを嫌がるかの様に、一稀がグッと指先に力を入れてきた。


「……何で…? 指輪は、いやだ…」
「指が腫れて喰い込んだら、指輪を切って外す事になる。その方が嫌だろう。だから今のうちに外しておいた方がいい。後でジェイに預けてやるから心配するな」
「ホントに?……落としたら怒るからな…」
 話すのもやっとな位にボロボロになっているのに、まだそんな憎まれ口を叩く一稀の様子に、少し安心して口元を緩めた。


 一稀の手から外したブレスレットと指輪をポケットに突っ込み、羽織っていたシャツを脱いで頭の下に置いてやりながら、華奢な身体の至る所に残る蹴り付けられた跡をジッと見詰めた。
「一稀、誰にやられた? お前、だいぶ前に帰っただろう。遊んでて絡まれたのか?」
「……ティコと、ご飯食べて……コンビニ行ってた……。帰る途中、タカ達に絡まれて…」
 そう途切れ途切れに呟く一稀の言葉に、思わず顔を顰めてしまう。
「タカって…、アイツは飛んだんじゃないのか? 売り上げを持ち逃げして、追われてただろう」
「…戻ってきたみてぇ…。何で、俺が…アイツにボコられたのかは……分かんねぇけど…」
 そう一稀が答えた瞬間、彼の足元に転がっている携帯が着信音を鳴らし始めた。


 相手が誰だか分かっているから、無言で携帯を拾い上げると、一稀の了承を得る事なく、勝手に通話ボタンを押した。
 一瞬、怪訝そうな声を出したジェイに、一稀の状況を教えてやると電話の向こうで声を詰まらせたのが分かった。数分前まで一緒にいた相手に、この場所を手短に伝えていると、一稀が溜息を吐いたのが聞こえてきた。




「すぐに来る。家にお前がいなかったから、携帯を鳴らしたんだろう。ちょうど良かった」
「…そっか…。ジェイ、怒ってた?」
「何でジェイが怒るんだ。お前が被害者だろう。心配はしてるだろうけどな」
 ブレスレットや指輪と一緒に、携帯もポケットに預かってくれる中川の姿を眺めながら、もう聞こえ始めた走り寄ってくるジェイの足音に、胸の奥がジンと痛くなってきた。


 傷付く姿を見たくない…と、そうジェイに言われてたのに、こんなに一方的にやられてしまった。
 大柄な3人が相手だったから、きっとティコと一緒に帰ってたとしても、この状況は大して変わらなかったと思う。むしろ、ティコが巻き込まれなくて良かった…と、その事には安心しているけど、やっぱり、こんな姿をジェイには見せたくなかった。




「――――……一稀、…」
 小声で名前を呼びながら、ジェイが身体の横に座り込んできた。
 そっと抱き起こしてくれた瞬間、また身体のあちこちが痛んでくる。でもそれより、本当にやさしく腕に抱えてくれるジェイの仕草の方が嬉しくて、何だかちょっと泣きそうになってきた。
「……ジェイ、ごめん…。怪我した……。ちょっと油断してた」
「何で一稀が謝る?お前は何も、悪い所はない…」
「ホント? …ジェイ、怒ってない?」
「怒ってる訳ねぇだろう。まだ痛むか?」
「ちょっとだけ……。でも大丈夫…」
 そう答えながらジェイの肩口に頬を寄せて、もう重くてしょうがなかった瞼を閉じた。


 一方的にやられてムカついて、そして、ジェイが怒ってしまったらどうしよう…?って、色んな事が頭の中をグルグルと廻っていたけど、彼の腕の中に収まったら、急にそれが消えていく。
 いつも通りに暖かなジェイの腕に抱かれて、急に身体の力が抜けてきた。
 殴られて痛む左の頬を、優しい手付きでそっと撫でてくれるジェイの指先の感触に、もう感覚の鈍ってきている頬を少し緩めた。


 自分では見えないけど、多分すごく腫れてると思う。きっと変な顔になってるんだろうな…って思うと情けなくて落ち込むけど、ジェイに撫でられている事は嬉しかった。
 今は頭もぼんやりしてて上手く話せそうにないから、後でもう一度、ジェイにちゃんと謝ろうと思う。
 本当に心配かけてしまったな…と反省しながら、柔らかく身体を包んでくれるジェイの腕の中で、意識が薄れていくのを感じていた。






「病院には連絡した。直接、連れて行った方が早いだろう。ウチの車を呼んである」
「……分かってる。大丈夫だ…」
 携帯を切りながら、そうジェイに話しかけたのに、全く違う答えが返ってきた。一瞬、動きを止めて考え、ゆっくりと視線を上げて、ジェイの方に視線を向ける。


 今、自分が無意識に何を答えたのか、多分、ジェイは自分では分かっていない。
 薄暗い道路に座り込み、ぐったりと力の抜けた一稀を抱きかかえた彼は、一切の表情を無くして腕の中の姿をジッと見詰めていた。




「……気を失ったのか?」
「そうみたいだな。……安心したんだろう」
「一稀本人も言っていたが、かなり手加減されている。心配するな」
「あぁ、分かっている。すぐに治る……」
 月明かりに照らされた青白い顔で、まるで自分に言い聞かせる様にポツリと呟いたジェイの姿に、かける言葉を失ってしまう。
 初めて目にする、普段とは全く違うジェイの様子を、只、無言でジッと見詰めた。


 今のジェイは混乱を通り越して、きっと何も考えられないんだと思う。
 取り乱す訳でもなく、それでいて普段とは全く違うジェイの虚ろな姿を、迎えの車が表通りに到着するまで、戸惑いながら見守っていた。






 病院に向かう車の後部座席で、一稀を抱きかかえたジェイの隣に座っているものの、今でも何を話しかけたら良いのか分からずにいる。
 腕の中のボロボロに傷付いている姿には本当に不似合いな程の優しい手付きで、乱れた一稀の髪を直してやっているジェイの様子に、何だか息が詰まりそうになって思わず視線を逸らしてしまった。


 いつも冷静で何処か他人と一線を引いているジェイは、何が起こっても自分を見失ったり、我を忘れて感情を顕わにする事はなかった。それがジェイってヤツだと、今までそう思っていた。
 恋人である一稀を他の男に抱かせ、平然としているジェイの真情を、多分、完全に読み違えていた。




 一稀の存在を軽んじているのではなく、逆に一稀の存在はジェイの全てなんだと、そう気付いた。
 可愛らしくて色っぽい一稀を他の男に抱かせ、それでも、自分の所に戻ってくる彼の姿を見せつけたかったのかもしれない。
 あれはきっと、いくら身体だけを手に入れても無駄な事で、コイツが愛しているのは俺だけだと、そう自慢したいジェイの、子供染みた自惚れだった。


 傷付いた一稀を放心状態で抱きかかえているジェイは、一稀の身に何が起こったのか、多分、まだ理解出来ていない。
 弱点など全く見当たらないジェイの、唯一の弱点が一稀だったとは、こんなに近くにいたのに気付いてなかった。






 揺れる車の振動から庇う様に抱え込み、暑い夜に曝け出していた一稀の素肌に残る擦り傷に、そっと指を這わせているジェイの仕草を見詰めながら、全く読めない彼の気持ちを推し量っていく。
 想像以上に深い所で一稀を愛してるジェイの憤りが何処に向かっていくのか、それがどうしても掴めなかった。


 そんなジェイの様子も気掛かりではあるけど、一稀を袋叩きにして去って行った奴等の真意も理解出来ない。一稀が奴等の恨みを買う様な事はしていないし、なにより、一稀本人が「分からない」と、そう口走っていた。
 奴等が何の目的で一稀を襲ったのか。その理由を知る必要がある。
 ジェイが平常心を取り戻す前に、少しでも対処を考えなければ…と思いながら、失神した一稀の身体を無言で抱きかかえているジェイの姿を、戸惑いのまま見詰めていた。






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