Eros act-1 21

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 ドアを開けた途端、目に飛び込んできた見慣れた靴に、思わず頬が緩んでしまった。
 ジェイはいつもこの時間帯は出かけているし、会えるのは夕方前だろうな……と、考えながら戻ってきたから驚いてしまう。
 でも今は少しでも早く彼に会いたくてしょうがないから、素直に嬉しさが込み上げてきた。
 三上に「昼には連れて来い」と言ってたみたいだから、もしかして、わざわざ来てくれてたのかな? と胸が弾む。
 少し慌てながら靴を脱いで、物音の聞こえる部屋に向かって、急ぎ足で短い廊下を抜けていった。




「ジェイ、今日は出かけなかったんだ?」
「まぁな。特に用事もないからな。今日は一日中、此処にいる」
 弾みそうになる声を抑え、努めて普段通りの声色で問いかけると、ジェイはテレビに向かったまま答えてくれてた。
 賑やかな音を立てているテレビの画面に何気なく視線を向けて、思わず吹き出してしまう。
 自分がやる時に誘った事はあるけど、まさかジェイが一人だけでゲームをするとは思ってなかった。
 何で、こんなのやってるんだろう? と思いながら、部屋の隅に担いでいたバッグを降ろした。


「……家に戻ってきたのか?」
 此方を見た気配なんてなかったのに、唐突にそう問いかけてきたジェイの声に、胸がドクリと音を立てる。
 どうして気が付いたんだろう……? と不思議に思いながら、何故だかテレビ前の床に座り込んで真剣にゲームをやってるジェイの背後に、ゆっくりと腰を降ろした。


「荷物が残ってたから行ってきた。これで全部……もう、俺の物は何も無いから、あの家に戻る事はないと思う」
「そうか。三上に送ってもらったのか?」
「家の前まで。待っててやる、って言われたんだけど、俺が断って帰ってもらった」
 そう答えながら、テレビから視線を外そうとしないジェイの背中に抱きついて腕を廻した。
 すっかり馴染んでしまった彼の身体が心地良くて、小さな安堵の溜息を洩らしながら、その温もりに頬を寄せる。
 自分より大きな背中のジェイに抱きついていると、少しチクチクと突き刺さっていた胸の痛みが、全部消えていく様な気がした。


「……ジェイってさ、マジでレースゲーム下手だよな。車の免許、持ってんのに」
 何度も暴走して激突して、その度にぐるぐると廻っているジェイの車を見詰めながら、そう背中から声をかける。
 本物の運転はすげぇ上手いのにな……と思いながら、何度ぶつかってみても、また性懲りもなくフルスロットルで走り出す、ゲーム中のジェイの荒過ぎる運転をぼんやりと目で追ってみた。
「うるせぇな。こんなガキ用のゲームなんか、ほとんどやった事がねぇんだよ。上手くいかないのは当然だろうが。ガキの遊びに慣れてるお前と一緒にするんじゃねぇよ」
 とてもゲームになってるとは思えないクラッシュを物ともせず、フンと鼻で笑いながら、聞き慣れた偉そうな口調で答えるジェイの背中を、額でゴツンと突いてやった。
「そりゃあ、そうかもしれないけど。でも俺はフルスロットルでカーブを曲がりきれない事くらいは分かってるぜ。ジェイだって、本物を運転するんだから分かってんだろ?」
「ばーか。実際の運転と一緒にするんじゃねぇ。本物の車でこれだけ激突すれば、そもそもレース復帰すらできねぇよ。ゲームの中で安全運転してもしょうがねぇだろう」
「……まぁ、言いたい事は分かるけど。でも、もうちょっとは、落ち着いた運転をした方が良いと思うな」
 激突を繰り返すジェイのゲームを、抱きついた背中越しに眺めながら、ほんの少し頬を緩める。




 肝心な所で弱気になって、ゲームの中だというのにスピードを落としてしまう俺と違って、強引に攻め込んでクラッシュを繰り返すジェイの姿に、何故だか奇妙な安心感を覚えた。
 負けん気だけは強くて、いつも意地を張っているけど、本当の自分はすごく臆病なヤツなんだ……って、今ではそう自覚している。
 だから、本当に自分勝手でこっちの弱音なんかに耳を貸さず、いつも喧嘩腰で向かってくる……そんなジェイの姿に、いつの間にか深く心を奪われてしまっていた。
 でもジェイはすごく優しい人だって、今ではハッキリと気付いている。
 口も悪いし、態度も冷たい位に素っ気ないけど、そんなジェイに誰よりも大事にして貰っている…と、そう実感していた。






「……俺、母子家庭だったんだ。物心が付いた頃から、母さんと二人だけで過ごしてた。父さんはいなくて、名前は知らない。写真も見た事ないから、どんな人なのか全然分からないんだ」
 ジェイの背中に頬を埋めたまま、そう話しかける言葉に、彼からの返事は無かった。
 でも、ちゃんと聞いてくれてるんだな……ってのは背中から伝わってきていたから、少し頭をまとめてから、また話し始めた。
「おじいちゃんとか、そういう人達にも会った事ない。本当に、母さんと二人だけで暮らしてた。おもちゃなんか、誕生日とクリスマスにしか買って貰えない位、貧乏だった。でも、母さんはすごく優しくて大好きだったから、俺は本当に楽しかった。他に誰もいなかったけど満足してた。母さんがいてくれたら、俺はそれだけで幸せだった……」
 次に話さなければいけない事が脳裏を過ぎり、言葉に詰まって黙り込んだ。
 ジェイは相変らず何も言ってくれない。
 それでも、俺が最後まで話続けるのを、待ってるんだろう…って分かったから、彼の背中に顔を伏せて、少し気持ちが落ち着くまで時間を置いた。


 いつの間にかスピードを落とし、スムーズに走り続けているゲームの音に、ぼんやりと耳を傾ける。
 何度言ってもフルスロットルで突っ走って、激突するのを止めなかったジェイが、ゆっくりとした速度でゲームの中の車を操っている。
 途切れる事のない走行音が、彼の運転する車の助手席に乗っている時と同じで心地良い。
 無言でテレビの画面を見詰めているジェイの意識は、何も言われなくても自分に向いているのが、抱きついた背中越しに伝わってきた。
 何台もの車に抜かされながら、それでも全然気にする事なくマイペースで走り続ける車を見詰めるジェイの背中に、またぎゅっとしがみついた。




「中学に入って少し経った頃、母さんが帰ってこなくなった。俺、ずっと一人で待った。俺がいない時ばかり狙って、母さんが戻って来てくれてるのは分かってた……でも、母さんが本当に迎えに来てくれた時に、俺がいなかったら困るだろうから…って、俺はずっとあの家に帰っていた。嫌になるくらい待ってたのに、それでもやっぱり迎えには来なかった。今日、鍵を返そうと思って、母さんの所に行ってきたんだ。一度も訪ねた事なかったけど、場所だけは知ってたから――そしたら、弟がいた。新しい父さんと弟がいるのに、俺だけが何も知らなかった。新しい家族が出来ても、やっぱり呼んで貰えない。俺は要らない子だから、母さんは連れていかなかった。俺はガキの頃に住んでたトコと一緒に、母さんに捨てられたんだ……」
 それが真実だと分かってたけど、一度も口にした事はなかった。
 ずっと胸の中に仕舞いこんで目を逸らして、そんなの嘘だ……って、認めてなかった。


 此処に戻ってくるまでの間、すごく沢山泣いたと思ってたのに、また涙が溢れてくる。
 ジェイに告げて認めてしまった現実が辛くて、胸の奥がズキズキと痛んできた。
 あんなに優しくて大好きだった母親が、俺を置いていくなんて、本当は信じたくなかった。
 もう、その理由も分かっているし、捨てていった母親を恨む気なんて全然ないけど、只、寂しくてしょうがなかった。
 今、母親が出て行ったとすれば、笑って見送れると思う。
 それが出来る位には、俺も少しは大人になった。
 でも、本当に置いていかれたあの当時は、俺はまだ子供で一人ぼっちが寂しくてしょうがなくて、只、泣いてばかりのガキでしかなかった。




 本当に辛いし寂しくて、一人でいっぱい泣いた後、色んな事を諦めてしまった。
 母親に捨てられた子供である自分に、何の意味があるのか、それがずっと分からずにいた。
 だから意地を張って、一人で生きて行こうとしてたけど、本当は色んな事を怖がっていたのかもしれない。
 もう二度と、こんな寂しい思いなんてしたくなかった。


 ジェイと出逢って此処に連れてこられて、彼の事を好きになったけど、どうしたら良いのか分からない。
 大好きなジェイも母さんと同じ様に、いつか俺を置き去りにして、此処を出て行く日が来るのかもしれない――――
 それだけを、無意識に恐れていた。






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