Eros act-1 20

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 何とか探し当てた住所にある、今の家と同じ位に小さなアパートを眺めながら、ほんの少し戸惑ってしまった。
 苗字も変わっている事だし、きっと、俺の父親とは違う男の人と暮らしている筈なのに……と思いながら、部屋の前まで行って表札を確認してから、少し離れた所に行って道端に座り込んだ。




 よく考えてみれば、確かに安アパートではあるけど、残された未成年の俺一人の為に、母親はあの部屋にかかるお金も支払ってくれていたんだと思うし、毎回じゃないけどお小遣いが置かれている事もあった。
 それが少し負担になっていたのかな…? と、放り出された子供だった頃には気付いてなかった色んな事を、アパート前の空き地で遊ぶ小さな男の子の姿を眺めながら、取り留めもなく考え込んだ。
 郵便受けがあるだろうから、その中に鍵の入った封筒を置いておけば良いかなと考えていたのに、このアパートには、そんな物は置いてなかった。
 玄関の扉に郵便受けがあるけど、もし、母さんが中にいたら直ぐにバレるよな…と躊躇っていると、目の前で遊んでいた子供が急にパタパタと走り出した。
 俺があれ位、小さかった頃は、母親と二人だけで過ごしていた。
 おもちゃなんて滅多に買ってもらえない位に、貧しくてささやかな生活だったけど、優しくて暖かな母親との暮らしは本当に楽しかった。
 それを聞く機会は無かったけど、きっと母さんも楽しんでいたと思う。
だから、こうして離れる事になってしまっても、俺の事を覚えていてくれたんだと、今でもそう信じてる。


 一緒にいた頃に、聞いておけば良かったな……って、そう何となく考えながら小さな背中を眺めていた瞬間、その子供が開けたドアを見て、視界がグラリと揺れた気がした。
 倒れそうになった身体を手を付いて支え、空を見詰めたまま、ゆっくりと、中腰だった身体をアスファルトの上に降ろした。
 心臓がバクバクと高鳴り息苦しくて、ズキズキと痛んできた頭を抱え込む。
 目にした瞬間に分かってしまった色んな事が、グルグルと頭の中で廻り始めて、強張る全身を支えながら必死に浅い呼吸を繰り返した。


 ――ずっと一人っ子だった俺に、弟がいる。
 そんな事、考えもしなかった。




 俺の知らない男の人と暮らしているんだから、特別不思議な事じゃないって分かる筈なのに、それは何故だかまったく頭に浮かんでなかった。
 母親があの家を出て、ずっと時間が過ぎてから、あの子は新しい家族になったんだと、その歳を見れば理解出来る。
 それでも、やっぱりその中に呼んで貰えなかった俺は、いつの日か、母さんが迎えに来て『新しい父さん』を教えてくれるに違いない、って……そんな甘い幻想を捨てきれてなかったんだと、ようやく気付いた。


 覚悟を決めて訪れた筈なのに、自分で考えてた色んな事より、ずっと厳しくて辛い現実が待っていた。
 此処に壁があるから……って、ずっとその影に隠れていた筈なのに、知らないうちにそれは完全に消え去っていた。
 残された俺は、何も無い暗闇に座り込んで、在りもしない記憶の中の優しくて大きな壁だけを、今でもジッと見詰めていた。
 それでも、本当はもう、何も無いんだと気付いていたのかもしれない。
 只、どうしてもそれを認めたくなくて、その場に留まり続けている自分がいた。


 いくら待ってみても、母親が戻ってくる事は絶対に無い。
 勝手に震えだした掌を握り締め、認めたくないけどそう自分に言い聞かせる。
 俯いて耳を塞ぎ、伸ばそうともしていなかった腕を無理矢理掴んで、暗闇から引き摺り出してくれたジェイに、今は只、逢いたくてしょうがなかった。






 少し落ち着いてきた胸の鼓動を感じながら、顔を上げてアパートのドアを見詰める。
 このドアの向こう側にある世界に俺が入れてもらえる瞬間なんて、どれだけ待ち侘びても、永遠に来るはずがなかった。
 だからもう、これで終わりにしよう。
 無くした記憶に縋っている自分に別れを告げて、俺は大好きなジェイの所に戻ろう……って、少し残る胸の痛みを堪えながら、そう決めた。




 ゆっくりと立ち上がって、その先に在る現実をジッと見詰める。
 随分と歳の離れた、小さな弟が遊んでいた空き地を横切り、ドアの前に向かった。
 これを此処に落としてしまえば、母さんに会う可能性も無くなるんだな…と、そう考えると少し寂しく感じる。
 それでも、離れなければいけないと思う。
 母さんには新しい家族が出来たし、俺だって、これから先はジェイと一緒に生きていこう…って、そう決めていた。
 心地良い居場所を見つけたんだから、もう、二人だけの思い出しかないあの場所を、いつまでも残しておく必要は全くなかった。


 握り締めていた封筒を差し込むと、呆気無く、それはドアの向こうに落ちていった。
 カタンと軽い音を立てて封筒が内蓋に落ちたのを確認してから、ドアに背を向け、ゆっくりと歩き出した。
 俺を置いて行った後も、幾度となく部屋を訪れていた母親だって、もしかしたら俺と同じ様に、色んな思いを抱えていたのかもしれない。
 本当に優しい人だから、まだ子供だった俺を残して行く事に沢山胸を痛めたんだろうな……と今でもそう思えている。
 だから、あの人がこれ以上、辛い気持ちにならない様に、自分から区切りをつける事を決めた。
 「俺も新しい居場所があるから、もう心配しなくていい」って、そう言葉をかける勇気のない自分には、これが精一杯の強がりだった。




 空き地の中程まで来た所で、勢い良くドアを開ける音が響いてきた。
 振り返って、現在の母親の顔を見たい気もするけど、こんなにボロボロと涙を流している情けない顔を、あの人には見せたくなかった。
 幼い頃、近所の悪ガキに虐められても泣かなかった時、母さんは「強い子だ」って褒めてくれた。
 だからあの頃と同じ様に、意地っ張りで我慢強い俺の姿だけを、ずっと覚えておいて欲しいと思う。
 もう二度と会う事のない、別れの時の切ない姿なんか欲しくない。
 楽しかった、遠い昔の想い出があるから、それだけで満足している。
 声をかけてくる事なくジッと背中に感じる視線を受けて、母さんも同じ事を感じているのかな…? って、そう思って泣きながら口元を緩めた。


 流れ続ける涙を拭いたいけど、そうすれば泣いているのがバレてしまう。だから、あの角まで我慢しよう……と決めた。
 母さんに「さよなら」って、言えなかった事だけが、唯一の心残りかもしれない。
 でも、俺には待ってくれてる人がいるから、一人じゃないから心配するな……って、声に出せずにそう告げた。
 幼い頃の俺がそうして貰った様に、まだ小さな弟を沢山可愛がって優しくしてあげて欲しいな……と、きっと母さんはそうするだろうけど、遠い所から願いを込めた。


 母さんも幸せそうで本当に良かった……と、心の底から素直にそう思っている。
 だから俺は、それに負けない位に、ジェイと一緒に幸せになろうと思う。
 もう会う事のない母の元を離れ、今、俺の事を本当に愛してくれているジェイの元に帰る為に、ゆっくりと歩いて行った。






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