Eros act-1 19

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「……ジェイってさ、今まで恋人とかいた?」
 車窓を流れる景色に視線を向けたまま、独り言の様に呟くと、ハンドルを握ったままの三上がチラリと一瞬、視線を向けてきた。
「俺が知ってる限りでは、そういうヤツはいなかったな。やっぱ、気になるモンなんだ?」
「そうじゃなくて……もしさ、喧嘩したりとかで仲が悪くなったら、ジェイは簡単に好きなヤツと別れるのかな…? ってさ」
 ボソボソと問いかけてみると、三上は前を向いたまま頬を緩めた。
「俺はアイツじゃないから、ハッキリとは答えられないけど、それは無いと思うぜ。ジェイって恋人とか興味なさそうだったのに、一稀を気に入って選んだんだからさ。そういうヤツが、ちょっと喧嘩した位で別れるとか、そういう風には思えないだろ。執着心の薄いヤツが選んだモノって、本当に気に入ってるんだろうから。そう簡単に手放す事はないと思うぜ」
 いつになく真剣な口調で答えてくれる三上の言葉を、外の景色に視線を向けたまま、真剣に聞き入った。
「うん、そうだな……俺が考え過ぎてるのかも」
「そう思うな。お前、そんなの気にしながらジェイと暮らしてんのかよ? それで、アイツと距離を置いてるんだ?」
「……分かんない。もしかしたら、そうだったのかもしれない。自分でも分かんねぇけど…」
 とりあえず三上にはそう答えながら、また窓の方に視線を向けた。


 本当に自分でも気付いてなかったけど、きっとそれが気になっていたんだと思う。
 ジェイの事を好きになって、傍にいるのが心地良過ぎて、その先にあるかもしれない出来事を、無意識に恐れていた。
 だから、ジェイが同じブレスレットを着けてくれたり、三上に「俺のモノだから…」と言っていたと聞いて、俺はこんなにも嬉しく感じたんだと思えてきた。
 ジェイは、言葉なんか簡単だと言うけど、俺はまだ彼よりずっと子供だから、難しい事を分かってないのかもしれない。
 いつか、彼と同じ様に「言葉なんて…」と思える様になるのかもしれないけど、今はもっと簡単にあんな些細な事で、気持ちがスッと落ち着いてきた。
 今は彼の気持ちが分かったから、何の躊躇いも持っていない。
 戻るべき場所を無くして、それで身体一つでジェイの所に行く……
 そうすれば、彼も喜んでくれるのかな? って、そればかりを考えていた。






*****






 家の前まで三上に送って貰って、そのまま、通り道にあるコンビニへと向かった。
 チルドカップのコーヒーと封筒を買って、ストローを差して飲みながら家に戻って行く。
 以前は缶コーヒーが好きだったけど、ジェイはコッチの方が気に入っていたから、俺も自然と買う様になってきた。
 でも俺のはジェイが飲むヤツより、だいぶ甘いんだけどな……とか考えながら、久しぶりのドアの前に立った。


 ジェイから貰った物より随分と安っぽくて古びた鍵を挿し込み、建付けの悪くなっているアパートのドアを開けた。
 閉め切っていた空気の立ち込める室内に入り、久しぶりに空気を入れ替えようと窓を開けた。
 使っている気配の無い部屋の中と、少しずつ減っている荷物に、母親も気付いたのかもしれない。
 前に戻ってきた時と変化の無い部屋の中を眺めた後、小さな折りたたみ式の卓袱台の前に座った。






 物心ついた頃から母親と二人だけで、ココで暮らしていた。その時から父親の存在は無かったし、写真も見た事がない。
 幼い頃、父親は『病気で亡くなった』と聞かされたけど、今ではもう、それは嘘なんだろうな…と気付いている。
 同年代の子達の両親より随分と歳が若く、居るはずの祖母や祖父にも会わせてくれない母親が、どういう事情でココで俺と二人だけで暮らしていたのか……それを何となく察する位には、俺も大人になっていた。
 自分と母親の容姿は全く似ていない。母親は俺の姿を見て「父親にそっくりだ」と、幾度となく話していた。
 ……だからあの時、俺は連れて行って貰えなかったのかな…と、今ではそう思っていた。




 中学に上がって少し経った頃から、母親が家を空ける事が多くなった。
 数日に一回だったそれは、次第に感覚が短く、期間も長くなってきて、そしていつしか、母親は戻って来なくなってしまった。
 学校にも行かずに母親の帰りを待っていたけど、結局それっきり一度も顔を見せる事は無かった。
 中学校の先生が呼びに来て、渋々と学校に行った日の夕方。学校から帰って来て目にしたこの卓袱台の上に、少しばかりのお金が入った封筒が置かれていた。


 この家に必要なお金を払った事はないから、きっと母親が俺の為にココを残してくれているんだと思う。
 俺がいない時を狙って、母親が戻って来ているのに気付いてからは、こっちもそれとなく家を空ける事が多くなっていた。
 あれから母親には会ってないから本当の事は分からないけど、きっと新しい『父親』と一緒に暮らしているんだと思う。
 だから母親には全然似てなくて、実の父親にそっくりな俺は連れて行って貰えなかった――
 そう、自分に言い聞かせていた。




 ぼんやりと煙草を一本吸ってから、徐に立ち上がる。
 部屋の隅に置かれていた大きなバッグに、季節外れの服を詰め込むと、もう、この家に自分の荷物は無くなってしまった。
 ごそごそと引き出しを漁ってペンとメモを取り出すと、また卓袱台の前に座る。
 何か書こう、せめて「今までありがとう」位は書いていこう……そう考えていたのに、いざペンを握ってしまうと手が震えてしまって、何も書けなくなった。
 母親に伝えたい事は沢山ある筈なのに、それを此処に書き残す事が、急に少し怖くなった。


 手紙を書くのは諦め、もう一度立ち上がって引き出しの方に戻る。
 ずっと前に書き残していたメモを取り出して、また座り込んでそれを見詰めた。
 何年か前、皆と同じ様に携帯電話が欲しくて販売店に行ってみた。でも、未成年は親の同意書がないと購入出来ないと聞いて、お店の中で溜息を吐いた。
 母親が何処にいるのか知らないから、親の同意書なんか貰える筈がない。
 まだ子供の俺が一人で自由に出来る事なんて、本当に限られていた。
 諦めて家に帰り、手渡されていた申込書を何気なく卓袱台の上に放置していたら、自分がいない間に母親がそれを書いてくれていた。


 初めて知った母親の新しい苗字と住所を、他のメモに書き写した。
 住所が分かったからといって訪ねてみる気はなかったけど、その居場所が分かった事は純粋に嬉しかった。
 優しくて大好きだった母親が、俺を連れて行ってくれない事実を、今では自分なりに受け入れたつもりでいる。
 この小さな卓袱台を介したやり取りが、唯一、いなくなった母親との接点だったけど、それでも精一杯の事をしてくれてたんだと思う。
 何年もの間、離れて暮らしてはいたけど、こうして絶える事無く、ずっと気にかけてくれていたんだから、もう、それだけで充分だった。
 本当に大好きで、いつも優しかった記憶しかない母親の口から、俺を拒否する言葉が出てくるのなんて絶対に聞きたくはない。
 だから何も告げずに、黙って姿を消した母親の事を、今でも恨む気にはなれなかった。




 暫くの間、そのまま座り込んで考えた後、メモとバッグを持って立ち上がる。
 窓を閉めて、玄関に行き、もう、必要な物は何も無くなった部屋の中を、最後に少しだけ眺めてみた。
 外に出て鍵を閉めると、キーホルダーから外して、買ってきた封筒の中に入れる。
 どうするべきか、ずっと考えていたけど、やっぱり最後に見ておこう……と、そう決めた。


 行けば辛い気持ちになるのは分かっているけど、どうしても此処に未練を残してしまう自分の気持ちを断ち切る為には、必要な事だと思う。
 母さんの所に行って、今の生活の様子を知ってしまえば、もう『此処には何も無い』んだと、そう思える様になるのかな……?
 まとまらない頭でそんな事を考えながら、メモに残された住所を頼りに、初めて通る知らない道を辿って行った。






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2008/11/3  yuuki yasuhara  All rights reserved.